〇
ぽつぽつ、と、将棋盤が降ってきた。と思う間もなく、将棋盤が激しく降り出した。じゃじゃ降りの将棋盤のなか、道に溜まった将棋盤を一つまたいだ。街中が将棋盤に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる将棋盤。道を埋め尽くす将棋盤。街中、将棋盤に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、片隅が降ってきた。と思う間もなく、片隅が激しく降り出した。じゃじゃ降りの片隅のなか、道に溜まった片隅を一つまたいだ。街中が片隅に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる片隅。道を埋め尽くす片隅。街中、片隅に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、しかしが降ってきた。と思う間もなく、しかしが激しく降り出した。じゃじゃ降りのしかしのなか、道に溜まったしかしを一つまたいだ。街中がしかしに濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるしかし。道を埋め尽くすしかし。街中、しかしに満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、請求書が降ってきた。と思う間もなく、請求書が激しく降り出した。じゃじゃ降りの請求書のなか、道に溜まった請求書を一つまたいだ。街中が請求書に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる請求書。道を埋め尽くす請求書。街中、請求書に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、注射器が降ってきた。と思う間もなく、注射器が激しく降り出した。じゃじゃ降りの注射器のなか、道に溜まった注射器を一つまたいだ。街中が注射器に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる注射器。道を埋め尽くす注射器。街中、注射器に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、お母さんが降ってきた。と思う間もなく、お母さんが激しく降り出した。じゃじゃ降りのお母さんのなか、道に溜まったお母さんを一つまたいだ。街中がお母さんに濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるお母さん。道を埋め尽くすお母さん。街中、お母さんに満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、鰻丼が降ってきた。と思う間もなく、鰻丼が激しく降り出した。じゃじゃ降りの鰻丼のなか、道に溜まった鰻丼を一つまたいだ。街中が鰻丼に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる鰻丼。道を埋め尽くす鰻丼。街中、鰻丼に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、国文学者が降ってきた。と思う間もなく、国文学者が激しく降り出した。じゃじゃ降りの国文学者のなか、道に溜まった国文学者を一つまたいだ。街中が国文学者に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる国文学者。道を埋め尽くす国文学者。街中、国文学者に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、織田信長が降ってきた。と思う間もなく、織田信長が激しく降り出した。じゃじゃ降りの織田信長のなか、道に溜まった織田信長を一つまたいだ。街中が織田信長に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる織田信長。道を埋め尽くす織田信長。街中、織田信長に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、余白が降ってきた。と思う間もなく、余白が激しく降り出した。じゃじゃ降りの余白のなか、道に溜まった余白を一つまたいだ。街中が余白に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる余白。道を埋め尽くす余白。街中、余白に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、改行が降ってきた。と思う間もなく、改行が激しく降り出した。じゃじゃ降りの改行のなか、道に溜まった大きな改行を一つまたいだ。街中が改行に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる改行。道を埋め尽くす改行。街中、改行に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、花屋が降ってきた。と思う間もなく、花屋が激しく降り出した。じゃじゃ降りの花屋のなか、道に溜まった花屋を一つまたいだ。街中が花屋に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる花屋。道を埋め尽くす花屋。街中、花屋に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、読点が降ってきた。と思う間もなく、読点が激しく降り出した。じゃじゃ降りの読点のなか、道に溜まった読点を一つまたいだ。街中が読点に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる読点。道を埋め尽くす読点。街中、読点に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、句点が降ってきた。と思う間もなく、句点が激しく降り出した。じゃじゃ降りの句点のなか、道に溜まった句点を一つまたいだ。街中が句点に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる句点。道を埋め尽くす句点。街中、句点に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、濁点が降ってきた。と思う間もなく、濁点が激しく降り出した。じゃじゃ降りの濁点のなか、道に溜まった濁点を一つまたいだ。街中が濁点に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる濁点。道を埋め尽くす濁点。街中、濁点に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、二人が降ってきた。と思う間もなく、二人が激しく降り出した。じゃじゃ降りの二人のなか、道に溜まった二人を一つまたいだ。街中が二人に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる二人。道を埋め尽くす二人。街中、二人に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、五階が降ってきた。と思う間もなく、五階が激しく降り出した。じゃじゃ降りの五階のなか、道に溜まった五階を一つまたいだ。街中が五階に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる五階。道を埋め尽くす五階。街中、五階に満ちて。
〇
ぽつぽつ、と、解釈が降ってきた。と思う間もなく、解釈が激しく降り出した。じゃじゃ降りの解釈のなか、道に溜まった解釈を一つまたいだ。街中が解釈に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる解釈。道を埋め尽くす解釈。街中、解釈に満ちて。
〇
氷だらけの海のなかに飛び込んだ白クマに襲われたペンギンたちが、冷たい海から氷の上にピョコンピョコンと、つぎつぎ飛び出てくるように、ママさんたちは、ドアのなかから出てきた。
〇
子どものとき、将来、自分がなりたいなあと思ったものの一つに、画家というものがあるということを、以前にも書いたと思う。小学校に行くまでの幼児のころには、畳のうえにまで渦巻き模様を描いていたらしいし、覚えているかぎり、ボールペンを手から離さない子どもだったらしいのだ。
〇
直接のきっかけは、小学校四年生のときに、動物園での写生会で、ぼくの描いた絵が、京都市主催の絵画コンクールで入賞したことであった。豹の絵を描いたのであった。動物園の飼育係のひとが檻のなかを水を撒いて掃除したあとの、コンクリートの床の中央のくぼみに溜まった水に映った豹の顔を描いたのであった。
〇
小学校高学年のときには、一つの色の絵具で、絵を描いていた。白い絵具で、海と空と雲を描いた。重ねた白い色には違いがあって、ぼくが小学校のときには、白い絵具だけで描いた絵を、絵として先生も認めてくれていた。中学でも、その手法で絵を描いていて、中学の美術の先生も、絵として
〇
認めてくれていた。高校に入ると、ぼくの絵の世界も変化して、何色もの色の絵具を使ったものになった。ただし、色と色を混ぜることは、けっしてしなかった。絵具の色そのものが、ぼくには美しかったのだ。絵具を混ぜないというぼくの主張を、高校の美術教師は認めなかった。
〇
美術の成績が下がって、ぼくも受験勉強に傾注するようになり、やがて、絵は好きだけど、描かないひとになっていった。海。ぼくの詩も、海が頻出するけれど、ぼくがはじめて書いた作文も、舞台は海だった。小学四年生だった。終わらない作文を書いたのだった。海のうえで、盥に乗った
〇
ぼくは、まるい盥のなかで、櫓をかいて、海の水をかいて、くるくる、くるくる回転していたのであった。波のおだやかな海のうえを、くるくる、くるくる回転していたぼくの様子を書いた作文だった。回転を止めるために、反対に櫓をかいて、でもまた、けっきょくは反対向きにくるくる、くるくる回転して
〇
しまう様子を書いていたのであった。時間がきて、書くのをやめるように言われるまで、えんえんとその繰り返しを書いていたのであった。これが、ぼくの覚えている、はじめての作文で、いま思い起こしても、同じようなものを書いているのだなと思う。この話も、以前に書いたことがある
〇
だろうか。はじめてかもしれない。ぼくが記憶しているぼくの作文は、これ一つだけで、ぼくの人生さいしょの作文が、自分でもあまりにも印象的で、いままで書いた自分の作品の中で、最高傑作ではないかと、ひそかに思っているのであった。もちろん、そんなことはないとも思うのだが。
〇
ものごとは、順番通りに起こるとは限らない。結果がさきに、原因があとに、ということもあるのだ。答えがさきに、質問があとに、ということがあるように。
〇
漏斗のなかに落とされると、濾紙を濾しながら、ぼくは、純粋なぼくになっていくような気がした。ぼくになりそこねたぼくや、ぼくでなかったぼくが、純粋なぼくから分離されて、いらないぼくが、ぼくから抜けていくような気がした。現実という漏斗。愛するきみ、きみという濾紙。
〇
「ここには家が出るんです。」幽霊たちが顔を見合わせた。
〇
聖霊もときには間違うらしい。世界中の人々の前に同時に顕われて、あなたは神の子を身ごもったと言ったのだった。赤ん坊も、少年も、少女も、男も、女も、老人も、老女もみな身ごもって、イエス・キリストを生んだのだった。何十億人ものイエス・キリストが生まれたのであった。
〇
母親が鳴って、電話が飛び上がった。
〇
鳥のように電話機が来て、手の上にとまった。
〇
雨の日の散歩は楽しい。街で見かけるものの色がはっきりする。河川敷に降りて行こうものなら、靴が泥だらけになって、帰ってから洗ってやることができる。そして、何よりも、子どもたちが水溜りを思い切り踏んづける楽しそうな声が聞けるのだ。
〇
雨もまた雨に濡れている。
〇
帰ってから短篇SFを書くつもりだったけれど、書く時間がなかった。きょうは奇跡のような一日だった。きょう一日は、文学よりも、現実のほうが大切だった。数年ぶりに、こころから神さまに感謝した。愛こそはすべて。10CCの曲が流れていた。でも、そろそろ奇跡のようなきょうにさようならしなければならない。
〇
手にふれると すつかり雨となる カタツムリ
〇
FBの見方をよく知らずに、メッセージがたくさんあって、きのうはじめて気がついた同級生がいて、昨年の5月にメッセージくれていて、きのうつながったけど、機械音痴だから、ますます時代に取り残されていく気がする。いいけどね。これからお風呂に、それから、きみやさんに飲みに行く。
〇
いま、きみやさんから帰ってきた。きみやさんの隣で、きみやさんのお客のひとりだったまことちゃんが立ち飲み屋さんの「HOPE」っていうのを、きょう開店したというので、ぼくも行ってきた。まあ、きみやさんの隣だから、行ってきたというのもオーバーだな。自分の好きなひとが、いっぱいで、楽しかった。よっぱ~。
〇
コインの力は、ちゃう、恋の力はすごい。ぼくのような怠惰な人間を勤勉にする。
〇
鯉の力はすごい。
〇
恋の力はすごくて、部屋の掃除をぼくにさせる。てか、それどころか、ぼくみたいな怠惰な人間を、きれい好きにしてしまったのだ。
〇
ぼくもジンときた。@fortunate_whale 僕はあなたに本を出してもらいたいと言われて、涙を我慢するなう。
〇
田中宏輔(たなかあつすけ)に生まれてきてよかった。ハラハラ、ドキドキ、いっつもギリギリの、めちゃくちゃすぐる、おもしろい人生をおくれて。
〇
蟻だと思います。
〇
台風なのに。
〇
なにが、ぼくを土地狂わせたのか。
〇
嵐のような雨だった。きのうのように激しい雨はひさしぶりだった。台風が去ったあとのように、きょうは雲ひとつない天気になった。土曜日だというのに、妻は仕事に出た。お得意さんのクライアントの都合らしい。二人の子どもたちは、ボーイスカウトのキャンプに出かけた。家にいるのは
〇
わたしひとりだ。庭に出て、料理用鉄板に火をつけた。軒先に、ひょっこりとリスが顔をのぞかせた。料理用鉄板がじっくりと温まっていた。全身にオリーブオイルを塗って、ペパーソルトとバジルをふりかけた。空には雲ひとつない。さっき顔をのぞかせたリスも、どこかに行ってしまった
〇
のだろうか、姿が見えない。十分に温まっただろうか。料理用鉄板にオリーブオイルをふりかけた。十分に温まったようだ。オリーブオイルの弾ける音がして、焼ける匂いがして、たちまち湯気のように蒸発していった。わたしは、鉄板のうえに立って、さっと身を横たえた。ジューという
〇
音がした。全身に、その音がしみ渡る。音が小さくなり、十分に焼けたと思われたころに、身体の反対側を鉄板にあてた。ふたたび、ジューという音が全身にしみ渡った。音がしだいに小さくなっていく。空には雲ひとつなかった。わたしは、料理用鉄板から降りて、庭椅子に腰かけた。
〇
リスの姿もなかった。わたしは、自分の右腕にかぶりついて、自分のやけた肉を食べた。肉は、なかなか噛み切れなかったけれど、思い切り力を入れて噛みとって、口に入れた。腕からしたたり落ちる肉汁をなめとり、新しい部分にかぶりついた。わたしの遺伝子をつかった、わたしに
〇
そっくりの食用人間を食べてみたのだが、記述が混乱したようだ。しばしば、わたしの記述は混乱しているようだ。庭を片付けると、食用人間たちのいる部屋に行った。たくさんのわたしが、テーブルについていた。自分の遺伝子を持つ食用人間と同居している人間は、このごろでは、そう
〇
珍しいことではなくなったようだ。さいきんでは、自分の遺伝子だけではなく、自分の娘や息子の遺伝子や、自分の親の遺伝子をつかった食用人間と同居しているひとたちもいる。妻が仕事から帰ってきたら、わたしを食べることができるように、残ったわたしの肉を調理しておこう。
〇
この記述が混乱しているのには、二つの理由がある。一つは、これが神のお告げであったことからくるもので、おまえ自身を火にくべて食べよ、という神の声が、わたしに書かせたものであるという理由によるものである。神の声は、しばしば、わたしを混乱させてきた。もう一つの理由は、
〇
父の秘密の日記を、わたしが、きのう父の遺品のなかから見つけたことによるものであった。父は、40人ほどの人間を、ほどのというのは、正確な人数がいまだに確定されていないからであるが、殺害して食べたという人物で、その罪によって死刑になるまで、膨大な量の口述日記を
〇
書籍にして出版させていたからである。秘密などなかった。つまり、わたしが見つけた父の日記は、犯罪が発覚するまえのもので、ひとに話して聞かせた自伝とはまったく別の存在であったということである。父の日記は、楽園ではじめて目がさめたときの記述からはじまっていた。
〇
父は目をさますと、さいしょに神の顔を見たらしい。つぎに目をさますと、のちに妻となるイヴの顔を見たという。妻となったイヴと、二人で、さまざまな動物たちに名前をつけていったという。名前をつけるまでの動物たちと、名前をつけたあとの動物たちとでは、まったく別の生き物か
〇
というくらいに違いがあったらしい。動物たちだけではなくて、鳥たちや魚たちや、木や花たちも、名前をつけられると大喜びして、二人に礼を言ったという。名づけられると、すべての生き物たちが生き生きとした表情を持ったものになったと書いてあった。そういうものかもしれない。
〇
妻が帰ってきたようだ。玄関のドアが開く音がした。父の日記を引き出しにしまうと、わたしは両腕を真横にのばして、手首のところで、はげしく手をはばたかせて、パタパタと空中に浮揚すると、階段のうえに自分の身体を浮かせながら、二階から一階へと、ゆっくりと下降していった。
〇
自分の遺伝子を家畜に、というアイデアは、おもしろいと思った。たぶん、未来の食卓では、自分の遺伝子をもったレタスやトマトやキュウリなどのサラダが食べられると思う。自分の自我にまみれた詩が、自分にとっておもしろいものなのだから、自分の遺伝子をもったサラダもおいしいはずである。
〇
食べたい。
〇
記憶障害を30代のときに起こしたことがある。大学なんか、とっくに卒業しているのに、自分のことを一回生だと思って、朝に目が覚めると、大学に行く準備をはじめた。大学院を出てすぐに家を出たので、見慣れない部屋にいると思って、ようやく、自分が学生ではなかったことに気がついたのである。
〇
自分の年齢もおかしくなって、高校に通わなくては、と思って、自分が通っていた堀川高校のときの同級生の顔を思い浮かべたのだが、また混乱して、亡くなった同級生のことを思い出して、ふと、もう何年もまえのことだったことに気がついたのであった。40代になって、記憶障害がなくなった。
〇
しかし、記憶が障害になっているのではなくて、記憶が混乱していただけなのかもしれない。現実の自分の記憶とはちがう記憶、おそらく読んだ本や見た映画などによる潜在自我への働きかけが、偽の記憶を混入させようとしていたのだと思う。
〇
精神的な危機を、30代で味わったが、そういう混乱がなくなって、40代になって、作品は逆に混乱したものになった。「マールボロ。」のころであるが、現実をコラージュするだけで、非現実になることに気がついたのであった。
〇
また自分自身の現実だけでも、コラージュすると詩になっていったのだが、そこに、友だちなどの現実をコラージュすると、たちまち詩になっていったのであった。その一連の作品は、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』に入れてあるが、その事情は、『The Wasteless Land.II』 に
〇
詩論詩、というかたちで、まとめて書いておいた。50代はじめのいま、40代からの状況がつづいていて、自分の現実や、友だちの現実をコラージュしまくっている。純粋な創作は稀になっている。SFっぽい設定のものを除いて、の話であるが。そうだ、あしたは、『薔薇窗』に送る短篇小説を仕上げよう。
〇
遠慮なう。
〇
義理なう。
〇
とかっていうツイットができる。
〇
ツイッターは、ストレスレスにしてくれる装置のような気がする。
〇
コンビニに、ビールとタバコを買いに。きょうの一日の後半の幸せすぐるぼく自身にお祝いをするため。夢を見ているのか。そうだ。あらゆることが夢、幻なのだ。
〇
ぼくは自分がゲイであることが大好き。ふつうなんて、いらないもの。 @VOICEofLGBT @hosotaka セクマイであることは別に恥ずかしいことじゃないし、隠さないで堂々とすればいいのはわかってる、でも頭ではわかってるけど心がついていかないのよね〜(´ω`)
〇
まあ、バカな生き方だと自分でも思うけど、詩を書くなんて大いにバカなことをやってるんだから、バカであたりまえである。それにバカじゃない芸術家を、ぼく自身、見たいとも思わないし。かしこく生きるなんて、まったく興味がない。簡単に恋に溺れるし、溺れて何度も死ぬのである。すばらしい人生だ。
〇
涙を通してしか見えないものがあると、ズヴェーヴォか、ブロッホが書いていました。 @yamakeiyone @sakurihu2
〇
泣きたいくらい、幸せな一日だった。
〇
若いときは幸せがこわくて、自分のほうから幸せを壊してた。なんという愚かなぼくだったのだろうと、齢をとって思う。幸せは、ほっておいても壊れるものなのだ。どれだけ壊さずにおいておけるのかが技術なのだと、いまのぼくは思う。そうだ、幸せは技術なのだ。いつからでもはじめられる技術なのだ。
〇
手話ができるようになるまで、どれくらいかかるのだろうか。手話で詩を伝えることは可能だろうか。ふと思いついただけだけど、将来、手話通訳をしたいと語る青年の話を聞いて。こころにとめておこう。
〇
新しい花の種を買ってきた。大きめの鉢に植えると、数日で、手足が土の間にのびていくらしい。たしかに、ジリ、ジリという音が昼間、聞こえた気がした。その音がして二日後に目が出てきて、耳が出てきて、花がのびて、唇が開いた。やがて、顔が現われ、手足も現われた。自分を傷つけながら、さらに
〇
成長していった。そこらじゅうに傷口がのぞかれたが、焼けただれた喉が、もっとも美しかった。「傷口の花」か、なかなか見ごたえのある傷口だった。こんどは「癌の花」を買ってこよう。
〇
「真っ赤に焼けた鉄の棒を腕や胸や顔に押し付けられた男の悲鳴」という種を買ってきた。鉢に植えて育つのを待った。さいしょの数日は、単なる息をする音しか聞こえなかったのだけれど、三日目の夜中に突然、絶叫する声がして飛び起きた。たしかに真っ赤に焼けた鉄の棒を押し付けられて叫んだ男の声の
〇
ようだった。レコーダーをチェックした。ちゃんと録音できていた。男の悲鳴は断続的にだが、数時間つづいた。絶命したころには、ぼくも汗だくになっていた。すごい緊張感だった。スリリングで戦慄するべき迫力のある声だった。このシリーズは、ほんとにいい。真に迫っていた。シャワーを浴びるために
〇
服を脱いで、浴室に向かった。
〇
わぉ。はじめての差し入れ。元彼もよくしてくれたな。がんばってルーズリーフ作業するぞ。
〇
ときには、泣きたいほどの幸せというものも、つづくことがある。
〇
詩人になりたいと思ったのは、言葉の魔術師になりたかったからだ。ルーズリーフ作業は、その修行の一つ。言葉で、どこまで、いろいろなことができるか。だから、ぼくがフォルマリストであるのも当然のことなのだ。フォルムは魔術の根幹にあるもので、ぼくが発明したフォルムは、ぼく独自の魔術である。
〇
しかし、フォルムは使用されるたびに強度がますものであるが、乱用されると、その効果が薄れるものでもある。恋と同じだ。恋もまた魔術の一つなのだ。そこにはフォルムもある。恋も、魔術も、詩も、才能が必要だが、やはり弛まぬ努力が必要なのだ。
〇
というか、フォルム自体がほとんど魔術そのもので、フォルムだけで魔術の大方の準備が終わっているのだと思う。フォルムに当てはめる言葉の意味と音は、単にフォルムを強固にする形象と音にしか過ぎないと思う。フォルムによって、ぼくは、ぼくにめぐり会う。フォルムによって、きみは、きみにめぐり合う。
〇
そうして、ぼくがぼくにめぐり合うことによって、ようやくぼくがぼくとなり、きみがきみとめぐり合うことによって、ようやくきみがきみとなるわけだ。ぼくがぼくであるときに、かつ、きみがきみであるときにだけ、ぼくときみは抱擁し合うことができる。一つの永遠の中で、あるいは、複数の永遠の中で。
〇
そもそも、形式は存在の入れ物であって、存在は形式がなければたちまち蒸発して消滅してしまうのだ。魂というものが、人間という入れ物がなければたちまち蒸発して消滅してしまうように。形象や色彩や感覚といったものが、事物や事象といった入れ物がなければ、たちまち蒸発して消滅してしまうように。
〇
二人がはじまりだったのか、恋がはじまりだったのか。恋があって、二人がその形式にあてはまってしまったのか。恋という形式が二人の存在を必要としたのか。あるいは、同時生起。それとも、恋が存在で、二人が形式だったのか。あるいは、二人がじつは恋で、恋が二人だったのか。考えるまでもなかった。
〇
幸せと辛いって、似てるんや。
〇
うゎ。ほんとですね。なんだか~。 @kayabonbon 若いと苦いも。
〇
言えてます。そして、一度でもいいから、幸せが辛くなるほど経験してみたいですね。 @fortunate_whale 辛いけど幸せや。
〇
若さ。苦しさ。ううん。 @pakiene 若いという字は苦しいという字に似てるという歌がありましたね。 QT @atsusuketanaka うゎ。ほんとですね。なんだか~。 @kayabonbon 若いと苦いも。 RT @atsusuketanaka: 幸せと辛いって、似てるんや。
〇
だけど、もしも、この世に、二人きりだったら、ぼくたちは幸せなのだろうか、と考えてしまった。
〇
朝早く起きたし、専用のクリーム塗って、かかとの角質とって、頭を刈って、頬ひげとあごひげを剃ってた。頬ひげは、キスのときにほっぺにあたって痛いと言うので、笑。さあ、お風呂に入って、仕事に出よう。
〇
きょうもルーズリーフ作業。もう、一生、勉強なのね。
〇
自分の言葉をコラージュして驚いたことの一つに、順番を変えるだけで、自分が考えたこともないことが、思いついたこともないことが書くことができたということがある。たしかに、パスカルがパンセに書いていたように、思考というもの自体、考える順番を変えるだけで違ったものになるのだから当然か。
〇
しかし、コラージュは、そのことが如実にわかる構造をしている。わたしは、わたしが考えたこともないことを、思いついたこともないことが書くことができて、ほんとうにうれしい。「ツイット・コラージュ詩」は、全行引用詩や、サンドイッチ詩や、引用詩や、●詩と同様に、わたしの強力な魔術の一つとなるだろう。
〇
落ち着いた恋などしたことがない。天国と地獄の間を行ったり来たり。神さまは、ぼくの人生をそういうものにしてくれている。それでいいのだとも思う。プライム・タイム。どんな状況にあっても、ぼくはいつも、ぼくの人生最良の日を生きているようだ。詩人とはかくも不幸にして幸福な人間なのであろう。
〇
数秒後に、なんて言ってほしかったのか悟る。電話が切れたあとで。恋をしていなくてもバカだけど、恋をしているとよけいにバカなぼくだ。だから、詩など書いているのだろう。恋をじょうずにできるひとは、詩人になんてならないんだろうな。これは、バカな自分に対する、ちょっとした慰めの言葉、笑。
〇
そして、その言葉を電話では伝えることができなくて、メールに書いて送ったけれど、返事がないという状態。こんなことの繰り返しばかりしてる。愛することは学ぶことができると思っていたけれど、ぼくには、とてもむずかしい。恋とは技術であるなどと偉そうに書いていた自分を、つくづくバカだと思う。
〇
恋の力はすごい。10年間してこなかったことを、ぼくにさせた。以前、アメリカ人の女性としゃべっていて、恋って、なにってきいたら「Change.」って言ってた。わたしを変えるもの。わたしが変わるもの、あるいは、わたしのものの見方を変えるものって意味だろうと思った。そのとおりだ。
〇
52才にもなって、恋をするなんて、思ってもいなかった。正直、詩を書くことのほかには、なにもできない、汚らしい、ハゲ・デブ・ブサイクなオジンやと思っていたのだ。しかも唯一、自分にできる詩を書くことだって、世間的に見れば、変人以外のなにものでもないのだし。でも生きててよかった。
〇
死んでしまいたいと本気で思ったことも何度もあったし、しょうもない、ろくでもない人間だったし、いやらしい、せこい人間だったのだけれど、恋は、そういう自分をすこしでも変えてくれる力があるのだった。ぼくは詩や小説が大好きだけれど、それは人間が大好きだったからだと、あらためて思った。
〇
きのう、日知庵のつぎに、立ち飲み屋さんのHOPEさんに行ったら、きみやさんのまるちゃんがいて、いっしょに来てた女性も魅力的で、ぼくの好きなひとばっかりだった。飲みまくって、ベロンベロンになって、部屋に帰ったら爆睡していて、いま好きな子のメールも見れなくって、大バカものだった。
〇
そうですよね。このあいだ、「あしたもがんばれる。」と、好きな子にメールしたら、「お酒の力でやろ。」と書かれるぐらいののんべえですけれど、もう若いときのように、お酒で失敗はしないように気をつけます、笑。 @tkc_nyc 恋っていくつになってもいいことと思います!応援してます(^^)
〇
芸術家の役目の一つに、愚かさをさらすというのがあると思っている。愚鈍な生きざまを世間にさらして、ひとの気持ちを生き生きとしたものにさせること。ぼくみたいなジジイが恋をしてるってことで、それがまたへたくそな恋愛をしてるってことで、いくらかのひとによい影響を与えることもあるのだと思う。
〇
「Changes.」デビッド・ボウイの曲を思い出した。きょうは、これから、耽美文藝誌『薔薇窗』に連載している小説「陽の埋葬」を仕上げよう。そうだ。BGMはボウイのアルバムをかけまくろう。
〇
むかし、林檎のような香りの息をする子がいた。どれだけすてきなんやろか、この子は、と思ったことがある。このあとは書かないほうがいいかな。 @cap184946 部屋がいい香りしてる。#アップルティー飲んでます
〇
彼ら彼女ら自身がすでに地獄そのものなのでしょうね。 @kiyoekawazu 以前も書いたが、人を差別する歓びは、死の欲望に似ている。フロイトがそのあらわれの例として、痛い虫歯に何度もさわってしまう行為をあげたように、みずからの汚い感情にふれ、増幅することに歓びを感じるのだから。
〇
でも、なにが強力かって、恋愛の魔術ほど強力なものはない。魔術をかけられた人間だけではなくて、その周りにいる人間たちも巻き込まれて魔術の影響を受けてしまうのだから。しかし、真の魔術は魔力がなくなったときにはじまるのかもしれない。知らないうちにまったくの別人になっているのだ。
〇
世界文学の最良のものばかり読んでいると、自分の文章のつたなさが、ほんとうにつらい。自分の小説の『陽の埋葬』の続篇を手直ししていて、そう思った。詩のほうが、はるかにおもしろい。向きと不向きがあるんだな。小説を書いていたぼくに、詩を書けと言ってくれた、むかしの恋人に感謝するべきだな。
〇
掃除好きじゃないのに、目についた埃とかもすぐにふき取ってる自分がいる。やっぱり変わったんだな。びっくり。
〇
@celebot_bot恋愛は若いものの幸福な特権であり、老人の恥辱である。(シルス)
ときには恥もまたいいものだよ。(あつすけ)
〇
姓名判断だと、ぼくの運命は最悪らしい。最悪でこれだったら、ぼくは十分に満足だけどね。すばらしい詩と、すばらしい小説に出合ってきたし、なによりも、すばらしい友だちや恋人たちと出合ってきたのだと思うと、それ以外のことは、まあ、ほぼどうでもよい。恋は終わりもすれば、はじまりもするのだ。
〇
十年ぶりに携帯をもつことにした。しじゅう、好きな子と電話とメール。そら、みんな、携帯もつわなあ、と思った。お昼ご飯をいっしょに、とのこと。夜は、ぼくが塾で会えないから。お昼ご飯をいっしょだけでも、じゅうぶん幸せ。というか、なに、こんなに幸せでいいのか、って状態。死ぬぞ、きっと。
〇
詩人は、その言葉を生み出したものも愛しているが、その言葉が生み出したものも愛しているものである。
〇
詩人は、その言葉を生み出したものも愛しているし、その言葉が生み出したものも愛しているのだが、じつのところは、その言葉そのものを愛しているのであった。
〇
そして、至福の一時間があっという間に過ぎ、詩人は、ふたたびルーズリーフ作業に戻るのであった。
〇
田中宏輔の第一印象
「清楚系」
「リア充」
「オタク」
田中宏輔の今の印象
「ホモ」
「ご主人」
「RT魔」
http://shindanmaker.com/360789
〇
ホモは差別語だぞ、笑。
〇
詩とは、新しい形の創造であり、新しい音の創造であり、新しい意味の創造である。少なくとも、そのうちのどちらか一つでも創造しなかったものは、詩とは呼ばれる資格がないように思われる。
〇
その文章のなかには、意味が不明な言葉がいくつかあった。しかし、知っている多くの言葉から、その未知なる意味の言葉の輪郭がしだいにはっきりしてきた。何度か読み返すうちに、とつぜん、その未知なる言葉の意味が了解された。ぼくがLGBTIQの詩人たちの英詩を翻訳していて、よくあることだ。
〇
一瞬のあいだに多くのことを学ぶこともできれば、一生のあいだに何も学ばないこともできる。それは、単なる意志の問題ではあるが、偶然という神による恩寵の問題でもある。
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恋をして、やはりいちばんスリリングなのは、自分がどんどん変わっていくことだと思う。若いときは、自分に才能があると思っていて、作品をつくる才能以外でひとを見なかった。いまは、才能なんて、みんな持っていて、ただ作品をつくっていないだけだとわかっていて、そのひと自体を作品として見てる。
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実現された自分の作品のまずしさも、ようやくわかるようになってきた。実現された作品、すなわち、ぼく自身のことであるが、人間というものはみな、自分を作品として永遠につくり直しつづけていく芸術家なのだと思う。
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理想のタイプで、ぼく自身がびっくりしています。ぼくだったら、こんなハゲ・デブ・ジジイは嫌だから。彼の目からぼくを見れないのが残念ですけれど、見れなくてよいのかもとか思ってみたり。ひさびさに、一瞬一瞬が生き生きとしています。 @m_shinkirou 恋してからの宏輔さん、キてる。
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http://www.youtube.com/watch?v=HNPNaLTxl0… チューブでのぼくの朗読ですが、たしかに、頭ひかりまくってます。えいちゃんに撮ってもらったのですが、ひかってる、ひかってると笑われまくりました、笑。 @kuroikenban恋をしていらっしゃるから、さらに後光がさしているようですw
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最大限の努力で、最小限の効果を発揮します。違った、違います、違いました。最大限の努力で、最善の翻訳にしたいと思っています。応援くださり、ありがとうございます。 @m_shinkirou (…)翻訳詩集、楽しみにしております。
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いまニコニコキングオブコメディ見てる。2週間おきの至福。
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詩や小説のなかには、ほかの場所では生き生きとしていた言葉がまるっきり死んでしまっているものがある。詩や小説によっては、ほかの場所では死んでしまっていたような言葉が新しく生まれ変わったように生き生きとしているものがある。詩や小説において、問題とは何か? 言葉の生き死にの問題である。
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書店の本棚をつぎのように分類してみてはどうか。たとえば、小説なら、「超難解な小説」「難解な小説」「大半のひとにとって難解な小説」「多くのひとにとって難解な小説」「少数のひとにとって難解な小説」「ごく少数のひとにとって難解な小説」「難解だと思われたことのない難解さをもつ難解な小説」
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自分の書いたものが新しいものか、そうでないものか、いままで書かれてきたものと同じようなものか、そうでないものか、その判断力さえあれば、詩や小説を書いてもいいような気がする。その判断が正しかったのか、正しくなかったのか、それは、自分で検討しなくともよい。時間がしてくれるだろうから。
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いまケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』のルーズリーフ作業をしてたんだけど、友だちからカラオケのお誘いがあって、「おごり?」と訊くと「かまへんよ、このビッチ!」とのことで、カラオケに。
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恋は饒舌にさせる。愛は寡黙にさせる。
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不幸が才能であるように、幸福もまた才能である。
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ひとつの映画が、ひとつのTV番組が、世界の見方を変えることがある。ひとつの詩の形式が世界の見方を変えることもあるだろう。いや、つくり変えることもあるのだと思う。
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出来のよくない詩人は、自分に関する話題にしか興味がない。
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事実は詩人に喜びを与える。じっさいにあった出来事というだけで、詩人には、それがとても貴重なものに思えるのだ。詩人は事実に最高の価値を見出す。大事なのは、その事実を取り巻く状況であり、その状況の理解であり、解釈であるというのに。
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ツイットで過去を留める。作品をつくって過去を留める。人間は、そうして過去に生きる。ラスコーの岩壁に絵を描いた原始人たちも、その描いた絵の過去に生きただろう。その絵を描いたときはもちろん、その絵を見るたびに、その絵が描かれた時間と場所と出来事のなかに飛び込んでいったことだろう。
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われわれが詩や小説や映画という他人の経験のなかで、それが架空のものであるときにさえ、自分の過去を思い起こし、自分の過去をふたたび生きるように、岩壁に描かれた絵を見て、その絵の描かれた場面に遭遇しなかった原始人たちもまた、その絵が描かれた時間や場所や出来事のなかでふたたび生きただろう。
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この詩人は、自分の作品のなかでは、なに一つ、ほんとうのことを書いていなかった。いや、ほんとうのことを書いても、すべて嘘になってしまうのであった。
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詩人は自分が一冊の本であることに気がついた。自分をペラペラとめくってみた。そこには、よく自分が覚えていなかったことや、自分が思いつきもしなかったことが出てきた。まだはじめのところで、自分が死んでることになっていた。残りのページは、生きているときのことを思い出して書いたものだった。
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真実、愛した記憶がある者なら、だれもが知っている。すべての幸福の元型(オリジナル)がそれで、ほかのあらゆる幸福がその複製(レプリカ)でしかありえないことを。たとえその幸福が持続したものではなく、つかの間のものではあっても。たとえその幸福が、当時はまったく幸福ではなかったとしても。
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アン・ビーティの『あなたが私を見つける所』読了。繊細な描写は、いつもの通り。新しい手法の発見とかはないけれど、読んでいて、すべての登場人物がちゃんと呼吸をしていることがわかる。いまからアン・ビーティの『ウィルの肖像』を読む。アン・ビーティ、あと2冊で完読。終わったら、ヴァージニア・ウルフを読む予定。
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雨のなか、濡れて帰ってきた。お風呂に入って寝る。
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友だちって、どういう存在か、わからへんけど、いてくれて、ぼくの人生が生き生きとしてることだけは、たしかや。そして、ぼくの2番目に大事な詩とはなにか、これまた、ぼくにはわからへんけど、詩しか、すがりつけるものがないのも、たしかや。詩は遊びやけど、遊びがなかったら、生き生きできひん。
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そのため社会に向けて働きかけるべきだと思います。ぼくも戦闘的な平和主義者です。カミングアウトと拙い詩作と翻訳とでですが。 @hosotaka LGBTが住みやすい環境は、すべての人が住みやすい。 だから、LGBTだけでなく、すべての人と手を組み、寛容な社会にしていく必要があるんだ。
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カミングアウト歴30年です。いろいろありました。いろいろあって、いま、この世に生きてます。みんな、いろいろあったほうが、人生、学べるよと言いたい。すべてのイスラム圏ではないかもしれませんが、厳しいイスラムの国では、いまでもゲイやレズビアンってわかったら死刑です。@hosotaka
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もうそろそろクスリが効いてきたんで寝るけど、アン・ビーティの『ウィルの肖像』、描写が繊細極まりない。彼女の小説をもっとむかしに読んでたら、と思わずにはいられない。彼女の本、アマゾンで、1冊1円できれいなの何冊か買った。
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いま帰った。きみやさんで、まさひこちゃんの誕生日をみんなが祝ってて、ぼくも参加させていただいた。いっぱいろんなことがあって、人生って、おもしろいなって、つくづく思った。迷惑かけたひと、ごめんね。おやすみ。
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きのうは日知庵と、きみやさんの梯子。四条河原町から、歩いて帰った。好きな子の家に近いところで別れて、自分の部屋に戻ったから、遠回りで歩いた。一時間以上は確実に歩いた。
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言葉と態度でいろんなことがわかるけど、ほんとうの気持ちが、言葉と行動にぜんぶ出てるとは限らないし、むずかしいな。それに、ほんとうの気持ちなんてものも、すぐに、ころころと変わるものかもしれないし。数学の定理みたいなものじゃないものね。
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見てるところ、注意を払ってるところが、二人ともぜんぜん違うし。そうだな。いま、トーマス・マンの言葉が、ふと思い出された。『トニオ・クレーゲル』かな。「より多く愛するものは敗者でなければならない。」さいしょ変換したとき、「歯医者」になった。「廃車」でも、おもしろいな。おもしろがるぼくは変だな。
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「好きだよ。」と言われて「ぼくも好きの最上級やで。」と返事すると、「なんや、それ。」と言われた。二週間まえのこと。きのうは、「好きだよ。」と言われて、「えっ、なに?」と聞き直したら、「もう、ええわ。」と言われた。きのうは、ベージュのポロシャツ着てたんやけど、胸元にチリソースこぼした。