夏帰り
トビラ
部活のない放課後は暇で、池谷はとっくに帰ったし、水原は兼任している生徒会に行った。仁藤は何をしているかわからない。まだ校舎にいるか、もう下校したか。もちろん仁藤には仁藤の領分があるから、仁藤がどうしようと、それは仁藤の自由だ。これはただ単に、このまま家に帰ってもなあという、個人的な問題だ。それは池谷の問題でもなく、水原の問題でもなく、もちろん仁藤の問題でもない。僕の問題だ。まあ、帰ってエペでもするか?
「ああぁあ」
隣から間の抜けた声が聞こえてくる。
「だるぅ」
つまらなそうにポツリとつぶやいたのは、隣の席の林さんだ。でも、僕はちょっとおどろいた。林さんはわりと真面目というか、ピシッとした感じの人だと思っていた。なので、そのだらけた姿は意外だった。などと思いながら、林さんの方に目を向けると、夏のこの世の果てまで届きそうな水色の空と、椅子に背もたれて「あぁ」とうめく林さんの姿が何か妙にしっくりきた。
「ああ、ごめん。ウザかったよね?」
ふいに林さんは、こっちを見て言う。
「ああ、いや、全然全然。ただちょっと意外だなって思って」
「意外?」
「ああ、うん。林さんはなんと言うか、しっかりした姿が印象にあったから」
「ごめん、ごめん、みっともないよね。隣のよしみということで許して」
林さんはこっちの方に向き直して笑う。
「あれ? 浅沼くんは今日は、部活は休み?」
「うん。そうなんだ」
「私もそう」
「部活が休みで、今日はどうしようかな?って思ってた」
「わかるー。部活の時はさ。休みたいーって思うけど、いざ休みになると、何しよーってなるの。わかるわかる」林さんが姿勢を変えるたびに、肩にかかった髪があちこちに流れていく。僕の短い髪は流れようもない。ただ少し、心が揺れるだけで。
「友だちもみんな用事があるみたいだし、もう帰って、エペでもしようかなって」
ええ、浅沼くんって、APEXするんだ?」
「うん。林さんもする?」
「私はしないよ。お兄ちゃんがしてる。私はFPSは苦手だから」そうか。それは残念。と心のなかで思う。
「林さんはもっと話しにくい人かと思ってた」
「ええ、そう?」
「普段はもっとこうピシッてしてて、ちょっと近寄りがたい感じがしてた」
「ええ? 私はこんな感じだよ? 眼鏡かけてるからかな」林さんは眼鏡をくいくいする。
「でも、話してみたら、なんと言うか、親しみやすい人だった」
「そう? なんかうれしいなあ。これから仲良くしてね」そう言って林さんは笑う。
「私も今から帰ろうと思ってたんだよ。部活は休みだし、友だちとはまあ、女の子同士の色々みたいなことがあってね。それで考えていたら、めんどくせーとなっていたわけですわ」林さんは机につっぷす。
「ああ、そうなんだね」女の子同士の色々。そうか。それはそうか。もうすぐ夏休みになって、それが直接関係あるのかないのかわからないけど、僕には少し遠い話かもしれない。
「ねえ、浅沼くん。君は気づいているかな?」林さんは顔だけ向けてそう言う。
「うん? 何を?」
「今、君にはさ、放課後にかわいい女子高生と、どこかに出かけられるチャンスが、めぐってきているんだよ?」
え? それって……。
「こんなチャンスは、日々部活にはげむ男子高校生には、なかなかめぐってこないんじゃないかな? まあ、絶世の美女とか、アイドル級女子と一緒にとかではないかもしれないけどさ。これはこれでなかなかレアなチャンスではないかな?」林さんは机に頬杖をついて、こっちを向いている。う、ドキドキしてくる。
「あの、林さん」
「ん?」
「どこか行きたいところとかある?」うわずりそうになる声を抑えて言った。
「私はねえ、小洒落たカフェに行きたいな」
「こ、小洒落たカフェ?」そんなところ行ったこともない。
「おおっと。これは部活にあけくれる男子高校生には、ハードルが高かったかな?」林さんは楽しそうにしている。く、どうする?
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。ここで悩める少年に救いの手をさしのべよう。君には、AIくんという無敵で万能な味方がいるじゃろう?」そう言って、林さんはいたずらっぽく笑う。
「こいつは無敵でもないし、万能でもないよ。知っていることしかわからないから。でも、このあたりのカフェには詳しそうだ」僕はさっそく調べてみる。
「ねえ、林さん。メイドカフェは、小洒落たカフェに入るかな?」
「ぷっ。あっはっはっはっは。メイドカフェ?」林さんは机をバシバシ叩いて笑う。その勢いに、まだ教室に残っていた生徒たちが、こっちの方を見る。
「ごめん。違った?」
「あー、うん。まあ、今回はギリ合格なんじゃないかな」く、悔しい。だいぶおまけしてもらってる気がする。
「今回のリベンジはいつかさせてもらうよ」
「ん? 今度、また一緒に出かける?」
「今度はちゃんと合格できるようにするから」このままでは終われない。終わりたくない。
「そっか、うん。期待してるね」林さんは目を細め、どこか遠いところを見るような顔で笑う。僕はそこまで遠いところに行けるだろうか? この安物のスニーカーで。でも。
「それまでに調べておくね。小洒落たカフェ」
「うん、がんばってね」林さんは立ち上がって言う。
「じゃあ、今日はメイドカフェに行ってみようか」
「あ、……うん!」
「浅沼くんはメイドカフェって行ったことある?」
「いや、行ったことないんだ。一度行ってみたいと思ってたけど」
「なんだよー。自分が行ってみたかっただけかよー」
「え? いや、そんなことは、……あるかな?」
「あるんかーい。でもま、私も一度行ってみたかったし、ちょうどいいや。一緒に萌え萌えキュンとかしようぜー」林さんは胸の前に手でハートを作って笑う。
「もしかしたら、及第点以上の場所かもしれないよ」
「ね、そうかもしれないね。意外に、ね」
「そう、意外とね」
廊下を出るとムワッとした熱気が押し寄せてくる。でも、たぶんこれは、いい夏の始まりだ。