バタイユについて
杉原詠二(黒髪)
バタイユは、自分の思想の根幹を、刑苦、すなわち、狂気の体験に見ている。しかし、わたしは、三十年間、あらゆる狂気、苦しみ、闇、混乱を、
生き続けてきたので、釈尊のおっしゃるように、苦行には意味がないと知っている。戦争にチャンスを見出す、というような思想は馬鹿げている。
なぜなら、破壊されたものは戻らないという自明の理を、しっかりと見ようとしないからだ。時代の病理の中に意味を見出そうとするなら、
まずは、苦の経験から立ち直ったものの超回復という論理が一番正しいと言えるだろう。そこの一点にのみ希望を見出せる。
また、経験された苦は、苦の理解となり、苦を滅する方法について、覚る機会を与えるとも言えるだろう。
しかし、苦を推奨する必要はまったくない。時代はまさに戦争否定即ち、八正道、中道を歩む方向へと向いている。
バタイユ的な思想家は、独善に陥るだけなのであり、時代的にほぼ無価値だ。
体験は重要である。しかし、善の体験を積むことは、バタイユによらなくても出来るのである。これから、人の可能性は、
暗い方向を見ないでも、幾らでも見出せる。当たり前のこと、闇より光を、死より生を、望むこと。こう言った基本的な智に反したことを
重く見るような論評では、何かを創造できないのであるとは当たり前だ。不死の境地はすでに釈尊によって示され、言葉遊びの現代思想の
及ぶところではない。
縁はあった。しかし、憧憬は抱けども、同意、尊敬はしない。わたしにとってはそんな哲学者である。
バタイユを読んでも大人にはなれないし、夢はかなわない。
バタイユに唯一価値を見出せるとすれば、それは、詩を豊穣にしたいという意志がそこに見られるような気がするところだ。