呑気な不意打ちの午後
ホロウ・シカエルボク
自然公園には干乾びた人々の夢が沢山落葉に埋もれていて今日の俺の漠然とした恐れもそのひとつとして零れ落ちていく、時折灰が降るような音がするのはそいつらが騒いでいるのか、午後は痴呆症の老人の笑みのような幸せをレタリングしながら大型船のように流れて行く、ベンチの上で何かに拘束されて生気を吸われているような気がする、腕時計は意味を成さなかった、いつの間にか電池が切れていたのだ、今朝確認した時はいつも通り数分進んだ状態で動いていたのに、フルートの音が聞こえる、誰かが練習をしているのだろうか、お世辞にも上手いとは言えず、とは言えまともな演奏だったらどうなのか、俺はそれを聴きたいと思うだろうかと少しの間自問してみたけれど、結局のところ俺が聴きたいものはもっと違うものだった、俺はイヤホンを使わないので、部屋に戻ったらそれを聴こうと思った…その公園に来たのは本当に久しぶりだった、休みの日に散歩に出たはいいが、暑過ぎて途中でどこに行く気もしなくなったのだ、ここに来れば少しは涼しいんじゃないかと思った、そしてそれは思った通りだった、そしてベンチの上で何かしらのズレに入り込んだのだ、もしかしたらそれは、腕時計が機能しなくなったせいなのかもしれない、それがトリガーだったのかもしれない、この前電池を変えたのはいつのことだった?電池が切れるには少し早い気がした、でもどこで電池を変えたのかすら思い出すことも出来ないくらいの話なのだ、自分の記憶がどこまで信用出来るのか、信用に値するものなのか、それはイエスと断言することは出来なかった、フルートの音は聞こえなくなっていた、馬鹿な、ついさっき耳に飛び込んできたばかりじゃないか?いや、もしかしたら、それがフルートではなく、なにかしらの異変の予兆だったのかもしれない、思考のテーブルに並べられるのは妄想ばかりだった、すべてが当たっているような気もしたし、何もかも間違っているような気もした、どちらにせよそれを証明出来るものはなにもないのだ、それはただ、遠い過去の記憶のように不意に脳裏を過っただけのビジョンに過ぎない、なにを証明するにしても、このまま動けなくなっている以上不可能だと言わざるをえなかった、肉体的な欠陥なのだろうか、だけど、自分が知る限り公園のベンチに腰を下ろしたまま動けなくなる肉体的欠陥なんてものは思い当たらなかった、こんなことを考えても仕方が無い、こんなものは巡り合わせなのだ、ここでこんな風になったことにも何らかの意味を見つけることが出来るかもしれない、それを探そうと思った、でも、どうやって?記憶にでも頼ってみるしかないだろう、動かずに出来ることなんてそんなこと限りさ、俺は過去に似たような出来事があっただろうかと思い返してみた、でも似たようなものは何も見つけることが出来なかった、なにやら思春期っぽい理由でそんな状態になったことはあった、でもいまの状態とそれが関係があるとはどうしても思えなかった、結論として自然公園の中で俺を硬直させるような要因はなにひとつ見つからなかった、もういい、俺は匙を投げた、このまま動けない状態が続くということはおそらく無いだろう、もしもそんな最悪な事態になったとしても、とりあえず誰かがここから連れ出してくれるぐらいのことはしてくれるかもしれない、その可能性はどれぐらいあるだろうか?可能性は薄い、と俺は願望半分で結論付けた、このまま動けないならそれはなにか深刻な病気だろう、何の前触れもなくそんな事態に陥ることなんてまず無いだろう、そこには気付くか気付かないかに関わらず何かしらの予兆というものがあるはずだ、先にも言った通り俺はそんな予兆に該当するものを何ひとつ見つけられなかった…しばらくそのままの状態が続いた、本当に動けるようになるのかと不安になり始めたころ、ひとりの女が俺に近付いてきて俺の前でしゃがんだ、落ち着いて、深呼吸してください、女の声は山深い森の中の湖のように深く冷たい響きだった、けれど、その口調には諭すような優しさがあり、その抑揚は俺の心を自然に落ちつかせた、女は身を乗り出し、俺の脈を取った、綺麗なかたちの黒髪のショートボブ、昔の女優がやってたのと同じシルエットだ、肌は怖ろしく白かった、陶磁器を思わせるくらいに、背は俺より少し低いくらい…一六〇くらいか、標準より少し痩せているのかもしれない、という感じの身体つきだった、俺の呼吸が落ち着き始めたのを見て女は静かに、地球の危機について語るみたいに真剣な調子で語り始めた、「これまでにこういった状態になったことはありますか」いや、と俺は短く答えた、「一人暮らしですか?」うん、とこれも簡潔に―女はそれでだいたい把握したらしかった、ハンドバッグから名刺を一枚取り出してこちらに差し出した、俺はそれを受け取れるくらいには回復していた、「心療内科医」と俺は思わず口に出した、「この状態は精神的な異常なのか?」たぶん、と女は―俺は名刺を見返した、芙石まりあ、とそこには書いてあった―まりあは簡潔に答えた、「無理にとは言いません、良くなる、という約束も出来ません、でも、これは間違いなく不調のサインです、大腸癌の時には血便が出る、というのと同じような」物騒な例えだ、と俺は言いながら腹をさすって見せた、女は微笑を浮かべた「もう大丈夫そうですね」そしてきちんと立ち上がって服の裾を直した、「どうしても気が進まないならしかたありませんが、一度そこにある住所に来てください、助けることが出来るかもしれません」多分行くと思う、と俺は答えた、でも、ひとつだけ気になることがあった、「こういう医者ってさ、鎮静剤みたいなものを使うだろ、ああいうの飲むと心が死ぬって言うじゃないか、それが気になる」御尤もです、と、女はまた微笑んだ、さっきより砕けた感じのする笑い方だった、「そういう薬を使うか使わないか、そういうところからプランを作ることも出来ますよ、個人でやっておりますので」俺は数度頷いて名刺をポケットにしまった、「またこんなことになったら困るもんな」「そうですよ、来てくださいね…それでは」芙石まりあは一礼して帰って行った、俺はゆっくり立ち上がり両脚がきちんと地についていて、思い通りに動き、体重を受け止めることが出来ることを確かめた、忌々しい午後だった、とりあえず家に帰りたかった、今帰らないと、二度と帰れなくなるような気がしたのだ。