リアリズムについて
守山ダダマ

 リアリティは必要である。いや、必要なものをリアリティと言うのである。
 現実に欠けているもの―いや、現実には絶えず欠けているものがある―を私たちが求めている、このこともまた現実である。
 現実、いや“現実”には存在しないが、私たちが欲している世界を書くことも作家の務めではないかと私は考える。
 「あるある」「わかるわかる」ということばかりではなく、「こうあってほしい」「こういうものが見たい」ということも書かなければいけないのではないか? 作家たる者、世間に対して文章を著し、公表しようとするのであれば、ただ“現実”の反芻を描くのではなく、希望の世界、“現実”において“不在”な世界についても描かなければ、せっかくの文章にも価値が生まれないのではないか?と私は極端にも思ってしまう。
 “現実”をそのまま映しただけの文章の、どこが面白いのか? 文章の本当の価値は、“現実”では見えないものを見せてくれるところにあるのだ。言葉は“現実”よりも奥が深い。人間社会の現実は言葉が司っているのだ。その言葉が持つ力を最大限に引き出し、“現実”の社会に対して問うのが作家の重要な仕事であろう。
 作家が言葉によって明かすべきものは、私たちが積極的に求めているものだけではない。私たちがアッと驚くもの、「何じゃこりゃ?」と思うもの、いや「何じゃこりゃ?」と言うこともできず口をぽかーんと開けてしまうほど無意味なもの、そういった奇妙な世界、不可思議な世界を文章の中に出現させることも、私たちの心にとっては大事なことだと私は思う。
 例えば内田百?の小説を読んでいると、いや、読み始めた途端にいきなりわけのわからぬ別世界に引き込まれて、読み終えるとまた急に現実に引き戻されて、と言っても現実はたとえ居間の中であってもまるで荒野のようで、そこで一人ぽつんと立たされて呆然としている、そんな気分を味わう。私はこれを、“現実”の落とし穴のように感じるのである。だが、このようなスリルを、実は私たちは知らず知らずのうちに期待しているのである。そう、「実は」という現実。私は百?の文章を読むことで日常を一度遮断され、新たな現実を見ることができたのである。自分の勝手な思い込みではあるが、彼が“現実”に仕掛けた陥穽によって、驚きと恐怖を感じながらも、日常的な抑圧から解放されたのである。今になって思えば、これはもうジェットコースターが急降下するときのような快楽ではないか! やったー!!
 そう、文章とは解放なのだ。そうあるべきだ。純愛を描いた小説が、解放になるとは思えない。現実というもの、言葉というもの、そして解放ということ・・・これらについて、私たちはステレオタイプな意味に惑わされずに、よくよく思考を重ねなければならない。考えていけば、新たな世界が見えてくる。


散文(批評随筆小説等) リアリズムについて Copyright 守山ダダマ 2005-05-31 15:23:20
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