running water
ホロウ・シカエルボク


それは本当の音にも聞こえたしこの世のどこでもない場所で鳴っている音にも聞こえた、場所が特定出来ない以上そのどちらかに決めることは出来なかった、だから俺は取り敢えずそれを「そのうちのどこか」という風に定めた、今思えば定める必要があったのかどうかすらわからない、どうしてその音にそれほど関心を持ってしまったのか、それはその一瞬だけあまりにも静かだったせいだった、どういうわけかあらゆる音が一瞬沈黙したタイミングでその音だけがクリアーになるのが聞こえたのだ、それは例えて言うなら、かなり大きめの骨が完全に折れる時のような音だった、乾いていて、よく響いた…えっと思って、耳を澄ました瞬間にはもう日常の音が帰って来てしまっていた、それでもうその音を聞くことは出来ないと諦めた、その音が聞こえた時自分がなにをしていたのか思い出せなかった、たまたまなにもしていない時間だったような気がする、行動と行動の狭間のような時間、そう、あらゆる物事の狭間みたいなものが綺麗に揃って、そこでその音が聞こえた、そういう感じだった、それまでに一度もそんな音が聞こえたことはなかった、あらゆる現象がまるで、俺にその音を聞かせる機会を御膳立てしたような、そんな感じがした、とはいえたった一度はっきりと聞こえたというだけの音にどれだけの意味を持たせるべきなのかわからなかった、本当にたまたま、その音が鳴るタイミングですべてが沈黙したと思えなくもなかった、でも偶然と呼ぶにはあまりにも揃い過ぎていたのだ、それが多分引っかかっているのだ、それが御膳立てというイメージに繋がってしまっている、だから俺はしばらくの間その音について考えた、部屋中を歩き回ってその原因になるようなものが見つからないかと試してみた、でもなにも見つけることはなかったし、もう一度その音が聞こえるようなこともなかった、あれはもしかしたらもう二度と聞くことが出来ない音なのかもしれない、そう思うともう一度聞いてみたくてたまらなくなった、その音に話しかけたりまでした、もう一度鳴ってくれないか、と―しばらくの間耳を澄ましていたがやはり二度と鳴ることはなかった、もう駄目だ、二度と聞くことは出来ないのだ、と、俺ははっきりと悟った、それから、異常とも言える不安感に襲われた、訳がわからなかった、たった一度何かのタイミングではっきりと聞こえた音をもう聞くことが出来ないというだけで何故こんな気分にならなければならないのか?俺はそもそもその音を求めていたわけではない、普段なら聞き逃してしまうような音なのかもしれない、そういう音が様々なタイミングのせいでクリアーに聞こえたというだけで何故こんなに気持ちを乱されなければならない?…しばらくの間どうすることも出来ず座り込んだまま茫然としていた、それは喪失感といってもよかった、俺は間違いなく何かを失ったのだ、たまたまその音を聞いてしまったが為に―その後のどんな意識的な動作も思いつくことが出来なかったので立ち上がってキッチンで水を飲んだ、水は冷たく、そいつが喉元を通って行くのは気持ちが良かった、おかげで気分も少しマシになった、日常が返ってきた気がした、そこからはとてもリラックスしていつもの休日を過ごした、奇妙な緊張があった分いつもより穏やかだったような気がする、米粉で作られた麺を茹でて簡単なパスタを食べた、それからコーヒーメーカーで数杯落としてのんびり飲み干した、サローヤンを読みながらミックジャガーのソロを聴いた、色々なものを聴くようになったけれど時々どうしても彼の声に戻らないといけない時間というのが必ずある、実家の自分の部屋に居る感じとでも言おうか、なにか他とは違う感覚が確かにあるのだ、同期のミュージシャンが次々と墓に入ったのに、ローリング・ストーンズはまだツアーを続けている、もう御伽噺の領域だ、歯を磨いて顔を洗い、軽い服に着替えてベッドに横になった、夢の中でずっとあの音が聞こえていた、忘れるくらいの間隔で―その度に眠りから覚めて灯りを点け、辺りを見回した、そして灯りを消してもう一度眠ると熟睡したころにもう一度鳴る、その繰り返しが朝まで続いた―奇妙過ぎる―翌日も休みだったのは幸いだった、問題はそれが昨夜だけのことなのかどうか、というところだ、俺はもう何も気にしないことにした、爆弾が落ちても目覚めないくらい何かに精を出そう、スクワットや腹筋なんかでもいい、今日はとにかく身体を動かして、訳のわからない音など気にならないくらいに深く眠ればいい、もの足りないならしばらく外を走ってくればいい、というわけで、走ることから始めた、外に出なければならないものから始めたというわけだ、数十分ほど走っているうちに違和感を覚えるようになった、始めはその原因が何なのかわからなかった、悩みながら走り続けてしばらく経ってようやく気付いた、足音にあの音が混じっている、耳を凝らさなければ気付けないほどのボリュームで―思ったよりもまずいことになっている気がする、でもだからといって途中でやめるわけにもいかない、俺は予定のコースを走り終えて家に帰った、汗まみれになった服を脱いでシャワーを浴び、身体を拭いて新しい服を身に纏った、水を一杯飲もうと蛇口を捻った時、水音は連続するあの音になっていた、俺はコップを手に持ったまま、しばらくの間茫然と流れ落ちる水を見つめ続けていた。



自由詩 running water Copyright ホロウ・シカエルボク 2025-07-31 21:59:14
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