死を運ぶ蟻のように
室町 礼

えー、左目の失明が近づいてきて、下手すれば死ぬ
かもしれないという情況で、(持病の脳動脈瘤から
来てるみたいなので)もうこの際、言いたいこと書
いて投稿させていただきます。
とはいえ本人は決して死なないと思っているのです
から世話ないのですが。あひっ。
えーとですね、
わたしが某「詩の学校」でがやがやしていたとき、
尊敬する同じ歳の中堅詩人の方がいまして、正直、
素人のわたしからみれば詩的才能の抜群の方に思わ
れました。その方から勝手にいろいろ学んでいたの
ですが、
その人があるときアウシュビッツ(=ビルケナウ強
制収容所)の実録映画のようなものを観に行ったと
いうことでわたしに感想を語ってくれました。
タイトルは忘れましたが、小さなシアターにニッチ
な関心をもつその詩人のような傾向?の人や作家や
学生、活動家のような方たちばかりが集まっていた
ようです。天井に配管だけが縦横に走る、いわゆる
「ガス室」のようながらんどうのシャワー室に裸に
されたユダヤ人が集められる。高まりゆく音楽が最
高潮に達したとき、一瞬、静寂がおとずれ、いきな
りシャワー管からシュ~ッという音が噴き出したと
いうのです。
水でした。
息を詰めてみていたのはその詩人だけでなく観客が
みなそうだったらしく、ガスではなく水とわかった
とたん客席から緊張が解けるため息がいっせいに漏
れ出たというのです。
「いや、凄かった」すぼめた肩を下ろす仕草でその
ときの緊張を語る詩人の興奮した顔。
わたしは思わず眼をそむけました。
見てはいけないものを見たような、聴いてはいけな
いものを聴いたような気がしました。
要するに彼らの動機がなんであれかれらはホロコー
ストの実録風映画からスリラーやサスペンス映画と
かわらない心的振幅を感受している。本人はそのこ
とに気づいていないし、まったく考えたこともない
だろうけど「ホロコースト」にそのようなゾッとす
るような日常的感覚との落差を見たがっていたこと
は明らかでした。
(なんだかなあ。)と思いました。
奴隷的境遇や強制労働のようなものを体験した者に
はとてもそんなものは観に行く気にならないような
気がします。
わたしもタコ部屋のようなところに監禁され今のよ
うな炎天下、スコップひとつで住宅地の深い穴を数
人で掘らされたことがある。奈落とか地獄とかいう
ものじゃない。三日間はぶっ倒れたまま身動きでき
ないような重労働を夜も寝ないで強制され、抵抗す
ると池に投げ込まれて死んだやつもいた。さすがに
その男はあとで過失致死で捕まったが、友だちと逃
げようとして飯場のゴロツキ監視員に車で追いかけ
られたこともあった。必死で逃げおおせましたが、
別に経験を自慢するわけじゃないのです。そうじゃ
なく、事実として命がけでギリギリの体験を踏んで
来た者にとってはホロコースト映画なんか冗談じゃ
ない、カネ貰っても見たくないものです。
だからわたしはすぐわかった。
「ああ、この人たちはホロコーストなんていっても
何も知らないしわからない。観念で図式的に理解し
ているだけだ。それだけならまだしも正義感と憤激
にかられて映画を観にいって実は意識の外では刺激
的な物語にコーフンしている」そう直感しました。
それが悪いというのじゃなく、なんというのかな詩
を書くといいながら詩人っていう方々はなんと自己
を対象的にみることが出来ない方々ばかりなのだろ
うかと疑問に思ったものです。

あとでさまざまな場面に遭遇してわかったのですが
尊敬に値する詩的才能の持ち主なのに世界を認識す
る眼はまったく幼稚園児のような方でした。間違い
なくわたしより数千、ひょっとすると数万冊の哲学
思想書や詩集、小説を読んでいることはわかってい
ましたが、いったいそれらはどこへ消化されたのか
と疑うほど世界認識は稚拙でした。
これは、その尊敬する詩人だけでなく、その詩の学校の
全職員、全講師もそうだった。校長の長谷川龍生以
下、驚くべきことには、みながある党派性の下、ま
ったく同じようにコピーされた世界観をもっている。
長谷川龍生には「あなたとわたしは違うのです」と
いう詩的言明があるが、まるっきり寸分と変わらな
い党派性の下で生きていてどの口でいえたものか、
その詩を読んで呆れたことがあります。
今の立憲民主党や国民民主党、共産党などのような
何の発展性も未来性もリアルもなにもない硬直した
サヨク党派性。つまり前列から最後列までまったく
同じ政治観に染められた、ワンパタの世界解釈しか
できない者ばかりが、そんなものにがんじがらめに
なっている。ところが不思議なことに彼らは、
いい詩を書くのです。
いやあ、驚くほどいい詩を書く。
この落差はわたしにとってはおぞましいものでした。
いったいこれは何だろう? 
どこが間違っているのだろう? 悶々としましたが
吉本隆明の共同幻想論から解釈すればあたりまえの
ことであることをあとで知りました。この書物に出
会えなければわたしは発狂していたかもしれません。
個人幻想(詩行為)と共同幻想(政治行為)とは同
じ人間の中でもまったく違う意識の領域に属してい
る。人間とは一体化したものではなく分割可能な意
識カテゴリーの集合体という吉本の考えはそれまで
わからなかった世界を、
朝に食べるよく焼けたカリカリのべーコンのように
胃の腑にストンと落としてくれたものです。
いや、そんなことはどうでもいいのです。
しかし......2000年以後、なんと幼稚な連中が文
学を語り、政治を語り、世界を語ってきたことでし
ょう。
まず初めに謎と疑問があり、それに回答を与えてく
れるものが思想というべきものじゃないでしょうか。
何の疑問も謎も持たない者が幾ら頭がいいからとい
って大学にいって何を学べるというのでしょう?
知識としての図式的な了解をしこたま頭に詰め込ん
でもあまり意味がないような気がします。
己も人間も世間も世界も知らない偏差値だけ
の受験秀才が、──そんな連中が何を語ろうと好き
にすればいいのですが、わたしの興味関心を惹く分
野とくに詩人や批評家を自称するものがホロコース
トを語りツェランを語る──。そういうものを見る
と踏まれたカエルのように心が
折れます。
そんなことをいうと蛾兆という人物から「それはお
まえの知性に対する劣等感からきているのだ」と学
歴のないことや文章の稚拙なことを指摘して低脳呼
ばわりされ、ある頭のイカれたような形式の詩批評
をするおばさんからは「反知性主義者」と断定され
ました。このおばさんからはブログ上やX上で散々
誹謗中傷されたものです。
知性に対する劣等感から もしもなんらかの納得する
知見を得ることができたのなら劣等感も捨てたもの
じゃないと思うのですが、そも、わたしの主張とは
何の関係もないはなしです。ある見解や批評が劣等
感から来ていようと、恐怖感から来ていようと、不
快感から来ていようと主張や見解の内実とは何の関
係もありません。まあ、なんというか、しょせんこ
の程度の反発しかできない連中がネット投稿板あた
りではもてはやされて、一丁前の知識人や詩人にな
ったつもりになりそこから一歩も外へでいこうとし
ないこの閉塞された空間。
息がつまらないのだろうか? 
それとも生まれつき金魚なのだろうか。
生まれつき金魚ならそれほど悪くはない。
だから詩人と称するぼくちゃんお嬢ちゃんたちがあ
ちこちでファッションに身を包み「どう、かっこい
いでしょう」と例えばツェランなんかを朗読するの
だろうか。
ああ、ツェランも今や、今川焼の圧力鉄板で焼かれ
た印のように、あるいは瀟洒なお菓子の包紙のよう
に──。
朗読される。
https://youtu.be/hzW7pRW7ip4
劇団もっきりや 詩よみ パウル・ツェラン(Paul
Celan)死のフーガ(Todesfuge)
わたしはこのお二人の朗読をバカにしてるのではな
い。わたしの尊敬する詩人の友だちだってそうだっ
た。ホロコースト映画を観に行ってコーフンしていた。
長谷川龍生も荒川洋治も野村喜和夫も....野村は
違うかな。笑 
かっこいいじゃないですか。とくにファッション。
これなら別にツェランの『死のフーガ』じゃな
くてもアグネス・チャン『ひなげしの花』でも全然
よかったのに、あえてツェランの『死のフーガ』を
選んだのはそっちのほうが知的に見えるからでしょ
うか。
最近、この投稿板に田中宏輔さんが投稿された『蟻』
という詩を読んで「えぐい光景だなあ」とそのリアル
さにちょっと感動したのですが、
まあ、なんというか蟻はどんなものでも餌として運ん
でいく。ツェランでさえも。ホロコーストですら。
なんと潔く爽やかなことでしょう。


散文(批評随筆小説等) 死を運ぶ蟻のように Copyright 室町 礼 2025-07-27 06:22:14
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