暴力について
室町 礼

五階建てのコーポに十年近く住んでいるんですが
自転車置き場が狭く新しく入った移民さんなんか
平気でわたしの自転車を表に放りだして定位置と
皆が認めてくれていた場所を占有する。確かに占
有の権利があるわけじゃない。十年住んで十年間
皆がそこをわたしが自転車を置く所定の場所とみ
なしてくれていても移民の方にそれが通用するわ
けじゃない。実際は早い者勝ちだ。文句をいって
も理屈の上では何の根拠もない権利であって口論
しても敗ける。つまらない口喧嘩をするのはいや
だから自転車には可哀想だけど雨に打たれはなし
にしておく。
一時が万事この調子で割れ物はだれかが傷つ
かないか心配で何重にも新聞で包みテープで巻い
てマジックで「割れ物です 注意!」と書いてお
く。すべてにわたって諍いがイヤで小心で怖がり
で情けないほどあらゆるいざこざが嫌いである。
(ネットでは殴られるおそれがないので言いたい
放題いってますけどね、申し訳ない)
さて、
わたしが日本で「リベラル」とか「サヨク」とか
呼ばれてい人たちを憎むのはその暴力性にある。
ニコニコ笑いながら握手をして、油断したところ
をナタで、主張や理念の違う相手を襲い、(最近
の立花隆志NHK党首襲撃事件など......枚挙にいと
まがない)失敗すると反省どころか「殺せなかっ
た」と残念がる。革マルと中核のゲバルト闘争や
ら赤間山荘に至る赤軍派の内ゲバとか本人たちは
そりゃあ生き死にの真剣な理念上のやりとりをし
ているのでしょうけど、ささやかな生活に命の火
をともして汗水垂らして生きている大衆庶民には
頭でっかちな子どものわがままにしか見えない。
死刑反対の辺見庸なんかこういった連中の殺しを
なんとか擁護しようとしますけどそんなものどん
な詭弁を使ってもダメなものはダメです。人類最
後の課題がこのリベラルによる暴力です。
いいですか、
哲学思想というと、まずギリシャ哲学を持ち出す
人がいますがあんなものは哲学でもなんでもない
のですよ。ただの"理念というゲーム"です。そこ
には生活も身体も社会もなにもない。倫理や人間
を語っているときにすらそうです。そのときです
ら「倫理」や「人間」という理念上の推論遊戯を
しているだけです。命ある人々の生活とは遊離し
て上滑りしているのです。
(それらをゲームとして理解している方がいるの
ならそれが正しいギリシャ哲学の捉え方ですから
その限りにおいて、面白いゲームとしてはよくで
きたゲームだと思います。肯定します)でもそれ
を哲学思想だと誤解しているから、
だから「立ち止まって考える」ということがない。
知への反省がないのです。だって知の自動運動が
まさにギリシャ哲学以来の人類の哲学思想という
ものだったから反省などありえない。
その後、ギリシャ哲学のようなものが哲学、思想
と誤解した人類によって延々とただの観念遊戯が
哲学や思想として発展してきた。この悪しき慣習
がいまのサヨクリベラルのあいだにも蔓延してい
る。ただの理念=妄想でしかないのに、そのただ
の観念のために生身の人間を殺してもいいと考え
る。安倍元首相が暗殺されたときにも、べつに
安倍氏が人殺しをした極悪人でもないのに殺人者
を喝采するバカがいた。人の惨殺を踊り狂って歓
ぶ山本太郎のようなのもいた。しかもサヨクリベ
ラルばかりだったことに驚愕した。ギリシャ
哲学以来の思想哲学がつくりだしたものが結局こ
れである。
クソのような暴力肯定。
そういう「知」というものの反動性を、子どもの
まま大人になった人たちに教える先生がいない。
哲学でも思想でも文学でも内容よりその内容に対
する本人の誠実さとか真面目さが大事なんだ。つ
まり結果よりもそこへ至る過程が大事なんだよ。
そういうことをこの競争社会では教えない。敗け
たらおしまいと思っている。理念や主張はなるほ
ど立派なことを仰っている。しかしその理念や信
条や主張を脅迫や恫喝、暴力で相手に強制しよう
というのがサヨクリベラルの共通性であるといえ
る。
みながみなそうじゃないという反論をする方がい
らっしゃる。リベラルの先生方はみなやさしくて
真面目で誠実な方々ばかりです。そう反論をする
方が多い。だけどそれは"サヨクリベラル"のリアル
を知らないからです。そうなことあるわけないだ
ろアホウとしかいいようがない。ガキのころから
結構差別とか排斥とかいうものに恒常的にさらさ
れてきた人間だから、何が差別で、だれが差別的
であるかようく見てきました。表見上の見せかけ
を見抜く技も苦労の末体得しました。そのわたし
がいうのだから
信じろというわけじゃないですがね。笑


散文(批評随筆小説等) 暴力について Copyright 室町 礼 2025-06-15 04:24:50
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