わたしの場合毒虫ではなく
ただのみきや
わたしはことばをノートにこぼすようにペン先でそっと
白紙に触れた 車の中 わたしはひとり わたし以外の
空間を目には見えない蜘蛛や蟹がいつものようにびっし
り埋めつくしている ノートの上には風が吹いていた
風そのものは見えないが乱されたり搔きむしられたりす
る叢や樹の様子を見ているとその時の風の強引さや表情
がはっきり見てとれることがある ノートの上にはも何
もなかったが──たとえばエーテルなんてものを想像し
た昔の人とか宇宙を頭に収まるものに近づけようと暗黒
物質なんていう仮説を立てた学者とか──白紙につくか
つかないかスレスレの辺り それでも白紙から見上げれ
ば成層圏に位置するところ──透明なプランクトンの抜
殻のような 非在の 形を失った 記号の幽霊やことば
の幼生体 今だ像を結ばない微細で無尽蔵の透けたもの
たちが 時に密に時に希薄に潮流や気流に漂うように蠢
いている ああ それら ───思春期に薬物によって
得られる幻覚の楽しみとその後続く恐怖の連続を経験し
たわたしには今でも一点を見つめていると透明で不確か
な何かが見つめている対象の周りで陽炎のように揺らい
だり激しく渦巻いたりしているのが見える 気がしてい
る そんな個人の感覚 幻覚というよりは錯視錯覚──
──つまりわたしは風の中あるいは澄んだ小川の流れに
ペン先を浸しているような感覚感慨にふけり暫しぼんや
りしていたのだ
ことばの方はいっこうに垂れも零れもしなかった 漫画
の吹き出しばかり 絵もなければ文字もない 完全なのっ
ぺらぼうの時間 こんなものどれだけ増えても重ねても
欠伸ひとつにもつり合わない 己の脈拍まで聞こえて来
そうな沈黙でギュウギュウ詰めになった密室の時計なし
の秒の進軍 そんな状況に飽き飽きしたわたしはペンを
白紙から引きあげた 白紙には黒い点 ペン痕だけが残っ
ている はずだった
ところが点とペンの間になにか細く黒い糸のようなもの
がインクの粘性ここに極まれりとでも言うべきかどんな
にペンを高く上げても腕を振ってもその糸は切れずにど
こまでも細く長く伸び続け 気づけばまるで不器用なこ
どもが朝食時に納豆と格闘しながら糸に絡めとられてい
くような 傍から見れば可笑しいが本人的には至って真
剣な困った状況に陥っていた
その時わたしは白紙の黒点がさっきよりも大きくなって
いることに気が付いた 嫌な想いが頭を過る───過っ
たはずの想いが再び戻って来て頭の真ん中に居直って貧
乏ゆすり始めている───黒点の裏側 白紙の深いとこ
ろから何かがこちらに近づいて来るような 案の定一点
を見つめるわたしの目には見えるはずのないものの気配
が色のない染みのように見え始めていた なんてことだ!
どれも見覚えはある だが ひどい変わりようじゃない
か 今まで書いた詩のひとつひとつ 一行一行 その文
字の連なりがひどい絡まり方をした釣りの仕掛けみたい
に意味も比喩もこんがらかってまるで四肢でも生やした
みたいに次々白紙の底から糸をよじ登ってくるのが透け
て見える 予感 その予感がすでに薄い影となって黒点
の周りに広がっていた ああ わたし由来の詩体が目を
覆いたくなるような姿態をさらしもはや死体と化した肢
体を淫らに蠢かせ白紙のこちら側に這い出ようとしてい
るのだ それだけじゃない 糸を 手を腕を伝って や
つらの慕う生まれ故郷 やつらを孕んだ胎 わたしの頭
の中へ帰ろうとしているのだ! 母体回帰願望 いや脳
内回帰かしらん 家を出た娘が緑色の棘のある皮膚をし
て腕は6本縦長の瞼が横に開いたり閉じたりする男になっ
て帰って来たらどうだろう 前と同じように愛せるだろ
うか 無理だ きれいごとで済まされない許容限界って
ものがある
インクの染みは大きく滲んで広がっていた ペン先が重
くなってきた 糸はピーンと張り詰めている 大物だ!
大漁だ! 狂った亡者のサビキ釣りだ! ペンを手放し
たくても手首から先が固まって思うように動かせない
冗談じゃない! こんな連中が頭の中に入ってきたら完
全に壊れてしまう やつらは初めから少々イカれてはい
た わたしが書いたのだから だがこうもひどく絡まり
合っては直視することもできない まるでことばのビー
ズで作った呪いの人形がそれぞれトラウマシーンをバッ
クにサンバを踊っているような 追い出した悪霊が七つ
どころかレギオンになって「パパ遊んでぇ 抱っこして
ぇ」とか言いながら鳥肌と共に皮膚の裏側を這い上って
くる かと思えば「どうしてこんな姿に生んだ こんな
気持ちの悪い詩体に………」等々の恨めしやも聞こえ─
──今やこの車の中のわたし以外の空間は隙間なく高密
度の恐怖が充満しその圧迫感で息もできないほど わた
しの心と頭では行き場のない焦りと混乱がひたすら激し
く対流し脇の下をつめたい汗が伝うし海藻まみれだし立
ち食いソバは喰いたくなるし無性にセックスはしたくな
るし───ともかく追い詰められていた まるで延々と
積み重ねて来た嘘が今すべて瓦解してしまうような 悪
夢が現実であると理詰めで証明されて認めざるを得ない
ような 今まさにそんな何かに直面しているようだった
自分を救うのだ! だがいったいどうやって? わたし
はわたしという全存在を力まかせに乾いた雑巾でも絞る
ようにして思案を重ねていた 1分間にいくつの知恵の
輪を腕力だけで外せるか 知恵とは力 脳は筋肉 事態
の収拾のためならどんな荒事だって厭いはしない
そんな時ふと思い浮かんだもの それは芥川の蜘蛛の糸
カンっ(痛っ!舌噛んじゃった ってダジャレじゃねー
ぞ!)犍ちゃんよ! 犍陀多ちゃんだってば! 状況そっ
くりじゃないか 絶対に犍陀多がいるはずだ いやいや
犍陀多みたいなやつばっかりに決まっている もともと
わたしが書いた詩だ 我欲で自己中心な連中ばかり 1
度後ろを振り返りさえすれば糸が切れるのが怖くなって
後ろに続くやつらを振り蹴り落とそうとするに決まって
る そうすればきっと糸は切れる! 切れるに決まって
る! わたしが釈迦だ! おまえたちに対しては絶対の
存在! 勝手な輪廻など許すものか!
ほうら ふり向いてごらん! 犍ちゃん 来てる来てる
後ろから大勢よじ登ってくるよ 落ちちゃうよ! 真っ
逆さまよ! 大変よ! 大変なんだってば! 糸きれちゃ
うし! ってーかテメエ馬鹿かよ! 早く振り返れって!
ちょっとは警戒すれよ! 危険なんだって 後ろ! 疑
えよ! にわかに訪れる幸福なんてみんな詐欺なんだか
らな! もっと幸福を疑えよ! 蹴落として! お願い
だから! 頼むから蹴落とす素振りとかさぁ 逆上して
罵って糸ゆするとか いいじゃないのよ お願いだからぁ
今度うんとサービスしてあげるからさぁ 犍ちゃんって
ばぁ たすけてよぉ 嫌っイジワルしないでぇ じらさ
ないでぇ なんでぇ なんでなのよぉ……………………
……………… ブ タ ヤ ロ ウ
わたしの精神は完全に追い詰められていた つめたい汗
で下着はビッショリに 過呼吸のせいか頭痛と吐き気が
ひどく身体もこわばっていた ちきしょう どうしよう
どうにかしないと 落ち着け落ち着け まずはを整えろ
わたしは祈るような気持ちで固く目を閉じ ただゆっく
りと呼吸をして自分の呼吸にだけ意識を集中した そう
して瞑ったまま天を仰いで心を静め神へ祈りをささげた
───御こころが天でおこなわれるように地でもおこな
われますように それでもってわたしだけは必ず絶対確
実にこのピンチから救われますように アーメンハレル
ヤ 目をあけたら状況が変わっていますように 全部夢
でもかまいません ひたすら楽しい日々が続きますよう
に 神様お願いお願い神様お願い神様……………
わたしはゆっくりと目を開けてみた どこにも神の姿は
なくヤコブの梯子もミケランジェロの天井画も見当たら
なかった ただ薄汚れた車の低すぎる天井が そして天
井に蟻みたいに小さな蜘蛛が その蜘蛛から幽かに細い
糸がわたしの頭に────そう見てとった瞬間 足場は
とけて景色が消失した────気がつくと深い深い白紙
の底 わたしはひとつの奇妙な散文詩になっていた
(2025年6月1日)