MELBA TOAST & TURTLE SOUP。 カリカリ・トーストと海亀のスープの物語。
田中宏輔
二年くらい前、ある詩人に、萩原朔太郎は好きですか、と尋ねられた。嫌な質問だった。というのも、この手の質問では、たいていの場合、好きか、嫌いか、といった二者択一的な返答が期待されており、それが、詩人の好悪の念と同じものであるか、ないかで、その後の会話がスムーズなものになったり、ならなかったりするからである。しかも、彼は用心深く警戒し、先に自分の好き嫌いは言わないのである。好きではないですけど、別に嫌いでもありません。ぼくの返事を聞くと、詩人は顔をしかめた。
しきりに電話が鳴っていた。
(コルターサル『石蹴り遊び』28、土岐恒二訳)
まだうとうととしながらも
(プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳)
わたしは受話器をとりあげた。
(ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・八岐の園、篠田一士訳)
自分の気持ちを正直に口にしただけなのに、詩人は不機嫌そうな顔をして黙ってしまった。唐突にされた質問だったので、つい、正直に答えてしまったのだ。そこで、気まずい雰囲気を振り払うため、ぼくの方から、でも、亀の詩は好きですよ、と言った。すると、彼は、人を疑うような目つきをして、そんな詩がありましたか、と訊いてきた。ぼくは、ほら、あのひっくり返った姿で、四肢を突き出し、ずぶずぶと水底に沈んでゆく、あの亀の詩ですよ、と言った。詩人はさらに眉根を寄せて首を傾げた。
ん?
(タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳)
電話の声は
(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』フェイディング、三好郁朗訳)
聞き覚えのある声だった。
(ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)
あとで調べてみると、朔太郎の「亀」という詩には、「この光る、/寂しき自然のいたみにたへ、/ひとの心霊にまさぐりしづむ、/亀は蒼天のふかみにしづむ。」とあるだけで、逆さまになってずぶずぶと水底に沈んでいく亀のヴィジョンは、ぼくが勝手に拵えたイマージュであることがわかった。そういえば、大映の「ガメラ」シリーズで、バイラスという、イカの化け物のような怪獣に腹をえぐられたガメラが、仰向けになって空中を落下していくシーンがあった。その映画の影響かもしれない。
もしもし?
(プイグ『赤い唇』第二部・第十回、野谷文昭訳)
空耳だったのかしら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』ゾーイー、野崎 孝訳)
ぼくはあたりを見まわした。
(ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)
ひと月ほど前のことだ。俳句を勉強するために、小学館の昭和文学全集35のページを繰っていると、石川桂郎の「裏がへる亀思ふべし鳴けるなり」という句に目がとまった。裏返しになった亀が、悲鳴を上げながら、突き出した四肢をばたばたさせてもがいている姿に、強烈な印象を受けた。そして、海にまで辿り着くことができなかった海亀の子が、ひっくり返った姿のまま、干からびて死んでいくという、より「陽の埋葬」的なイメージを連想した。熱砂の上で目を見開きながら死んでいくのだ。
壁に
(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)
絵が一枚かけてあった。
(ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)
死んだ父の肖像だった。
(原 民喜『夢の器』)
ここひと月ばかり、様々な俳人たちの句に目を通していったが、読むうちに、俳句の面白さに魅せられ、勉強という感じがしなくなっていった。とりわけ、村上鬼城、西東三鬼、三橋鷹女、渡辺白泉などの作品に大いに刺激された。鬼城の「何も彼も聞知つてゐる海鼠かな」という句ひとつにしても、それを知ることで、ぼくの感性はかなり変化したはずである。穏やかな海の底にいる、一匹の海鼠が、海の上を吹き荒れる嵐に耳を澄ましているというのだ。この静と動のコントラストは、実に凄まじい。
亡霊は生き返らない。
(イザヤ書二六・一四)
パパは死んじゃったんだ。ぼくのお父さんは死んでしまったんだ。
(ジョイス『ユリシーズ』10・さまよえる岩、高松雄一訳)
どこか別の世界にいるのだった。
(ル・クレジオ『リュラビー』豊崎光一・佐藤領時訳)
河出書房新社の現代俳句集成・第四巻で、鬼城を読んでいると、「亀鳴くと嘘をつきたる俳人よ」と「だまされて泥亀きゝに泊りけり」の二句を偶然、目にした。次の日に、新潮社の日本詩人全集30をめくっていると、これまた富田木歩の「亀なくとたばかりならぬ月夜かな」という、亀が鳴かないことを前提として詠まれたものを見かけた。桂郎の句では、亀は鳴くものとして扱われていたが、別に、亀が鳴くことには疑問を持たなかった。これまで、亀の鳴き声など耳にしたことはなかったけれど。
絵の
(ウィーダ『フランダースの犬』3、村岡花子訳)
唇が動く。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳、句点加筆)
父はわたしにたずねた。
(ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4、父の死、清水三郎治訳)
このように、亀が鳴くことを否定する句をつづけて目にすると、逆に、亀が鳴くことを前提とした句が、数多く詠まれているのではないか、と思われてきた。そこで、歳時記にあたって調べることにした。角川の図説・俳句大歳時記・春の巻を見ると、「亀鳴く」が季語として掲げられていた。そこには、亀が鳴くものとして詠まれた句が、十あまりも載っていたが、前掲の木歩のものとともに、亀が鳴かないものとして詠まれた、「亀鳴くと華人信じてうたがはず」という、青木麦斗の句もあった。
またかい。
(堀 辰雄『ルウベンスの偽画』)
同じ文句の繰り返しだ。
(セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳)
そこにはオウムがいるのかしら。
(ヘッセ『クリングゾル最後の夏』カレーノの一日、登張正実訳)
講談社の作句歳時記を見ると、「カメには声帯、鳴管、声嚢もないので、鳴くわけはなく、俗説に基づくものであるとされているが、かすかにピーピーと声を出すことはあるらしい」とあり、前掲の角川の歳時記にも、「いじめるとシューシューという声を出すという」とあるが、「しかし、これらが鳴き声といえるほどのものかどうかは疑わしい」ともあって、亀が鳴くとは断定していない。また、教養文庫の写真・俳句歳時記には、「実際に鳴くわけではないが、春の季題として空想する」とある。
しかし、
(ドストエーフスキー『カラマーゾフの兄弟』第一巻・第三篇・第三、米川正夫訳)
あのハンカチは一体どこでなくしたのかしら、
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅 泰男訳)
色は海の青色で
(梶井基次郎『城のある町にて』昼と夜)
動物の生態を歳時記で知ろうとするのは、間違ったことかもしれない。そう思って、平凡社の動物大百科12を見ると、「一部のゾウガメの求愛と後尾にはゾウもねたむかと思われるほどのほえ声がともなうことがある」とあった。亀は鳴くのだ。しかし、前掲の句に詠まれたものは、大方のものが、沼や池などに棲息する水生の亀であって、ゾウガメのような大型のリクガメではなかったはずである。知りたいのは、昔から日本にいる、イシガメやクサガメといった亀が、鳴くかどうか、なのである。
これがまた
(カミロ・ホセ・セラ『パスクアル・ドゥアルテの家族』有本紀明訳)
地雷を埋めた浜辺だった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)
どこの浜辺もすべて地雷が埋めてある。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳、句点加筆)
文献に頼るのはやめ、京都市動物園に電話をかけて、直接、訊くことにした。以下は、飼育係長の小島一介氏の話である。亀は鳴かない。たしかに、リクガメは、交尾のときや、痛みを受けたときに、呼吸にともなって音を出したり、カゼをひいて、鼻水のたまった鼻から音を出したりすることはある。しかし、それはみな、偶然に出る音である。おそらく、春の日にあたるため、水から上がってきた亀たちが、人の気配に驚いて、トポトポトポと、水に飛び込む音を、「亀鳴く」としたのだろう、と。
そういえば、
(メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
芥川龍之介が
(室生犀星『杏っ子』第二章・誕生・迎えに)
海の方へ散歩しに行った。
(ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)
トポトポトポが、亀の鳴く声とは、ぼくには思いもよらない、ユニークな見方だった。その光景は、カゼをひいた亀が、ピュルピュルと鼻を鳴らす姿とともに、ほんとに可愛らしかった。電話を切って、図書館に行くと、教育社の古今和歌歳時記の背表紙が目に入った。「実は呼吸器官である」とあった。小学館の日本語大辞典・第三巻を繙くと、「これは鳴くのではなく、水をふくんで呼吸する音であるという」。で、また、何気なく歳時記を見ていると、ふと、「蚯蚓鳴く」という季語に目がとまった。
どうしてこんなにたくさん?
(ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳)
ほら、さわってごらん。
(ヒメネス『プラテーロとぼく』9・いちじく、長南 実訳)
何時かはみんな吹きとばされてしまふのだ。
(ポール・フォール『見かけ』堀口大學訳)
自由詩 MELBA TOAST & TURTLE SOUP。 カリカリ・トーストと海亀のスープの物語。
Copyright 田中宏輔 2025-05-19 12:32:43
縦