『本好きの下剋上』を〈身体の神話〉の物語として読む
大町綾音
『本好きの下剋上』という物語は、通常「本への情熱が世界を変える」という知識欲の勝利の物語として読まれることが多い。だが、もしこの作品を、〈身体の神話〉として、すなわち人間が「生きる」ことそのものの物理的な困難と歓びを描く物語として読むならば、そこに浮かび上がってくるのは、きわめて肉体的で物質的な現し世の重みと、それを乗り越えようとする祈りのような運動である。
物語の冒頭において、マイン(もとの名前は本須麗乃)は、現代日本において健康を享受しながらも、生に倦み、本に没入する形で日常を漂っていた。だが、彼女はその命を絶たれ、異世界に「再生」する。その新たな世界で与えられたのは、虚弱で発熱を繰り返す少女の身体だった。ここにまずひとつの象徴性がある。物語は、生の根幹にある「身体の不安定さ」を徹底的に描くところから始まるのだ。
身体が健康でなければ、知識も、行動も、愛も、ままならない。どれだけ豊かな精神をもっていても、それを現実の世界に浸透させるためには、まず「立ち上がる身体」「働く身体」「生き抜く身体」が必要となる。マインはことあるごとに病に倒れ、発作を起こし、時に死にかけながらも、自らの身体と和解し、折り合いをつけ、生き抜こうとする。それは抽象的な意味ではない、きわめて現実的な、「熱を下げる」「食べる」「寝る」といった行為の神聖さに気づくプロセスである。
この物語の真の下剋上は、身体の回復をめぐる戦いであるとすら言える。マインの知識や発想は、確かに「文明の再構築」を支えるが、それを可能にするのは、「生きのびること」そのものの不断の努力である。そしてその努力は、身体という土壌に深く根を張っている。
魔物や陰謀、宗教的な儀式や貴族社会の策略は、すべてこの「身体に生きることの困難性」を象徴化した存在だ。たとえば、身体に蓄積される「魔力」の暴走──デヴェリ症は、まさに身体がこの世界のルールに適応できず苦しむ構造である。それは現代における自己免疫疾患やアレルギーのようでもあり、あるいは社会的な生に馴染めない個人の比喩でもある。異世界に投げ込まれた「異物」としてのマインが、常に死の予感と隣り合わせにいること。それは、現実社会における個人の脆弱性を写す鏡でもある。
また、「神殿」は肉体を抑圧し、精神の純化を要求する空間として描かれている。神殿に入ることでマインは知識へのアクセスを得るが、同時に自らの身体を制御し、他者の意思に従わせられる存在へと変貌していく。これは、身体を脱却しようとする「宗教的なるもの」への批判でもあり、逆説的に「身体にとどまることの尊厳」を浮かび上がらせる。
マインがその後出会う家族、友人、守護者たちは、それぞれに「身体に生きる」ことの多様なかたちを教える存在である。例えば母のエーファは、子どもを抱え、日々の労働をこなす中で「身体を使って生きる」ことの尊さを体現している。騎士フェルディナンドは、「身体を捨てたように見える」存在だが、やがてその抑制された肉体が、逆にどれほどの意志と痛みに支えられているかが明かされていく。彼もまた「身体の神話」のなかにいる。
身体は常に「傷つく」可能性を内包している。だからこそ、人は慎重になり、他者に寄り添い、工夫し、想像する。マインが文字を創り、本を作り、印刷を試みるという試みも、それ自体が「身体を超える手段」ではなく、「身体の限界のなかで何が可能か」という試行錯誤の記録である。彼女は身体を捨てて精神だけで飛翔するのではなく、むしろその逆──どこまでも肉体に縛られながら、しかしそこにこそ希望を見いだす存在として描かれている。
では、『本好きの下剋上』が語る幸福とは何か。それはおそらく、壮麗な宮殿を持つことでも、政治の頂点に立つことでもなく、「今日という一日を、身体とともに過ごすことができた」という穏やかな実感にある。それは、物語終盤でマインが育児に目を向けたり、家庭の温かさに触れる場面に最も強く表れる。彼女が目指す「本のある世界」は、すなわち「身体が安心して過ごせる世界」の別名なのだ。
『本好きの下剋上』は、単なる知識の勝利の物語ではない。それは、生きづらさ、病、制度の不備、孤独、誤解といった、あらゆる「身体の痛み」をくぐり抜けてなお、それでも現し世で生きたいと願う者の祈りの物語である。マインがつくりあげる書物の王国は、どれほど魔法や策略に満ちていても、決して地に足のついたこの「痛みを伴う世界」から遊離することがない。
それはまさに、現代における〈身体の神話〉である。すべてを一冊の本に託してもなお、その本を読む目が見えなければ、その手が動かなければ、世界はただの夢にすぎない。『本好きの下剋上』は、そうした夢から人を目覚めさせ、「読むこと」以前に「生きること」を再発見させる、誠実で強靱な文学である。