『機動戦士ガンダムAGE』における許しと老いを一つの祈りとして読み解く。
大町綾音
2011年に放映された『機動戦士ガンダムAGE』は、いま再び振り返るに値する作品であろう。
放映当時の評価は必ずしも高くはなかったが、その背後には、この作品が持っていた主題の深さ、そして“時代よりも先に進んでしまった”構造的な誠実さと、そのことによる反視聴者的要素があったように思われる。
三世代にわたって描かれるこの物語は、表層的には親子三代の英雄譚のように見えるが、そこに潜んでいるのは「許し」「老い」「人間の変化」という、きわめて現代的かつ人間的なテーマである。
中心人物であるフリット・アスノは、少年時代に最愛の人を失い、その喪失が復讐と正義を混交させた強固な信念となって、彼の人格を形作っていく。
その後の人生を通じて彼は軍人、国家指導者、設計者として歴史の中枢を歩んでいくのだが、その行動原理の多くは「敵を赦さないこと」「己れを変えないこと」、つまり正義を憎しみによって支え、貫くことであった。
しかし、物語の最終盤、すでに老境にさしかかったフリットは、かつての敵──ヴェイガンを赦すという究極的な選択をする。
その決断は劇的でありながらも、一見あっさりと描かれている。……注目すべきは、赦すと決めたその後の彼が、驚くほど“ためらわず”にそれを実行してしまうという点である。
感情の揺れや逡巡が描かれることはなく、ただ静かに、しかし確実に彼は過去のすべてを水に流し、後の世代に未来を託す。
その態度は、決して宗教的な赦しのイメージのような崇高さには満ちていない。むしろ、それまでの長い葛藤と苦しみの果てにようやく訪れた「サムライ的空白」のような静けさである。
この「ためらいのなさ」は、強さとも弱さともつかない、人間の「老い」そのものの表れではないだろうか?
ここで描かれているのは、年を経た人間が、信じてきた価値観を手放すときの奇妙な軽やかさ、あるいは“もはやそれを問い直す気力すらなくなってしまった”果ての沈黙でもある。
それは観念の勝利ではないし、感情の癒しでもない。ただ、長く続いた戦いの終着点で、人が一人、「語らずに赦す」ことを選ぶ。
それはドラマティックであると同時に哲学的でさえあり(それゆえに<分かりにくい>)、そこに生々しい人間の存在が滲んでいる。
この赦しの場面が特別なのは、そこに至るまでの過程が丁寧に描かれていたからである。
『AGE』の構成は、世代交代を重ねながら、フリットの正義がどのように継承され、どこで食い違い、どう受け入れられなかったかを執拗に追っている。
息子アセムは、父の戦争観を受け継がず、孫のキオは敵と共存する道を模索する。
その姿を見ながら、フリットは決して自分の非を語ることなく、ただただ静かに孤独を深めていく。そして最終的に彼は、自分の理念が否定されてもなおそれを押し通す、ということをやめ、何も言わずに「ただ託す者」へと変わる。
この構造は、『機動戦士ガンダム』シリーズ全体のなかでも異色である。
歴代の主人公たちはたいてい若者であり、「何かを始める者」として描かれていた。だが、フリットは「終わらせる者」として描かれる。
しかもそれは、物語的な「終幕」の象徴というより、存在そのものが“沈黙へ向かう老い”を象徴するものになっている。
だからこそ、彼が最後に銅像として記憶される、という演出は、きわめて寓話的でありながらも、現代人の心に刺さる余白と、さらには大きな問いとを残している。
この作品の寓話性を強調するならば、そこには「世代間の断絶と継承」、「赦しの不可能性と可能性」、「老いのなかに生まれる唯一の変化」といったモチーフが、鮮やかに組み込まれていると言える。
現代社会においても、場合によっては戦争こそ直接的には存在しないにしても、世代ごとの価値観の違い、そして過去の正義の再評価、さらには“敵=他者を赦せるかどうか”という問いは、日々個人のなかで繰り返されている。
『AGE』は、そうした内面の問いに対して、きわめて誠実に応えようとした作品だったと言える。
それがアニメという形で、しかも“子どもにも見られるように”設計された作品であったという点にも、特筆すべき意味がある。
『AGE』は決して、大人だけのための作品ではなかった。むしろ、「赦しとは何か」という問いを、まだ赦す必要のない子どもたちに向けて投げかけた。その大胆さは、教育的というよりも、祈りに近い。
結局のところ、『機動戦士ガンダムAGE』は、主人公のフリット・アスノが赦すことによって終わるのではない。彼が、赦すまでの沈黙の時間を生きたことで、初めて“物語として、終わった”のである。それは、彼の赦しが「行為」ではなく「在り方」だったことを示している。
そして、彼がやがて物言わぬ銅像となり、物語から退場することで、ようやく世界は「未来」を得ることができた。
老いとは、過去に語る資格がある唯一の世代が、それでも語らず、微笑むことにすり替えていく運動であろう。
その姿が、あまりにも静かに、あまりにも透明に描かれていたこと──それこそが、『AGE』という作品の最も深い寓話的核だったのである。
それは、2011年当時における「歴史的現在」の物語であると同時に、今なお続く「歴史的未来」の物語でもあった……