歌でしか語れなかった──建礼門院右京大夫の運命の構造
大町綾音
建礼門院右京大夫という存在を、ただ一人の和歌の作者として捉えるとき、そこに浮かび上がってくるのは、恋と追憶を主題にした抒情の匠である。しかし、その背後には明確な「語れなさ」があり、そういうことでしか、自分を保存できなかった──そう考えるとき、右京大夫の家集は、ひとりの女性が“記録としての存在”へと転位していく過程そのものだと言える。
彼女は、平安末期から鎌倉初期という激動の時代を生きた。平家の最盛期、その姫・平徳子に仕えた宮中女房であり、多くの貴公子や歌人との交わりを持った人物だった。恋人とされる平資盛は平重盛の子で、彼女にとっては恋というより“世界の象徴”でもあった。資盛は壇ノ浦で入水し、彼女は都に残された。右京大夫は、愛と国家を同時に喪失した人である。
彼女の歌には、そうした政治的な痛みを直接詠んだものは少ない。しかし、そこにこそ「語らなさ」の美学がある。
たとえば、次の一首──
> 年月の積もりはててもその折の
雪のあしたはなほぞ恋しき
ここに描かれるのは、恋人が雪の朝に訪れたときの記憶である。恋という語で語られてはいるが、その背後には、すでに海に沈んだ資盛の不在がある。そして、この歌は「いま現在」の感情でありながら、明らかに“記憶の書き出し”である。つまり、右京大夫は**「記憶を現在として詠むことで、語れぬ喪失を生きのびた」**のである。
では、なぜ「語れなかった」のか。
ひとつには、女性であったこと。女房としての立場は、記録されるよりも、内側にあることを求められた。
もうひとつには、語る言葉がなかったこと。平家の都落ち、壇ノ浦、そして建礼門院の悲劇──あまりにも過酷な現実は、政治的にも、宗教的にも語られる枠組みを超えていた。語れば、歴史になる。だが、右京大夫の歌には、「歴史になることを拒む私」がある。
建礼門院徳子が、都を落ち、女院として寂光院に隠棲したとき、右京大夫は彼女を訪ねている。
この場面は、物語文学ではなく、あくまでも家集の詞書と和歌の形式でしか残っていない。たとえばこの一首──
> 今や夢昔や夢とまよはれて
いかに思へどうつつとぞなき
訪問の描写は、「かつて六十人いた女房のうち、今は三、四人が墨染めの衣で仕えている」と、あくまでも冷静な観察として語られる。涙の描写は最小限で、言葉は途切れ、「むせぶ涙におぼほれて、すべて言も続けられず」とある。ここには**「語らないことで伝える」構造がある**。
そしてもうひとつ特筆すべきは、右京大夫が晩年に再び宮中に出仕しているという点である。
あれだけの喪失を経て、再び“社会の場所”へ戻る。この再出仕の背景には、平家から鎌倉へ、権力の重心が変わるなかで、かつての記憶を持つ者としての「生き証人」の意味が生まれていたと考えられる。
彼女の最後のほうの歌には、こうした時代の裂け目を生き延びた者の視線がある。
> 今はただしひて忘るるいにしへを
思ひ出でよと澄める月影
この歌は、月という自然が「過去を思い出せ」と言っているように見えるが、実は「私はまだ思い出したくない」と語っているとも読める。この“思い出すことすら痛い”という地点に、右京大夫の最晩年の精神がある。
彼女は、語らなかった。けれど、語らぬまま沈黙しなかった。和歌という、制約の中でしか語れない表現を用いて、すべてを残した。
それは、個人の愛の記録であると同時に、語られることのなかった“平家の断絶した文化の記録”でもある。
右京大夫は、声を持たなかった時代にあって、沈黙を「歌」という形式に変えることで、自分の痛みと時代の崩壊を封印したのだ。
彼女の家集が、日記文学としても読まれるのはそのためである。長い詞書と一首の和歌。そこにこめられたのは、「語られなかったことが、どこまで人を生かすか」という試みである。
私たちはいま、「語ること」にあまりにも慣れてしまっている。だが、語らなかった者たち──とりわけ、右京大夫のように、“記憶と喪失”を歌で抱き続けた人間の声は、現代にこそ響いてくる。
それは、“詠み人知らず”に近い沈黙でありながら、確かに誰かの心に届く、ひとつの声でもあるのだ。