百葉箱のなかの祈禱書。
田中宏輔
小学校四年生のときに読んだ『フランダースの犬』が、すべてのはじまりだという。実際、彼の作品は、神を主題としたものが多い。二十代までの彼の見解は、サドが『閨房哲学』の中で語ったものと同じものであった。「もし神が多くの宗教によって描かれているようなものであるとするならば、神こそ世の中で最も憎むべきものであるにちがいない。なぜかと言えば、神はその全能の力によって悪を阻止し得るにもかかわらず、依然として地上に悪がはびこるのを許しているからだ」(澁澤龍彦訳)
石の水、
(森本ハル『石の水』読点加筆)
この岩の古い肋骨、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)
水はえぐった岩のなかの石だ、
(マクリーシュ『地球へのおき手紙』上田 保訳)
現在の見方は、このような単純なものではない。三十代前半に、彼はさまざまな苦難に遭遇したが、それらを克服することによって、以前とは違った目で、事態を把握することができるようになったのである。はじめの間、彼は、まわりが変わったと思っていたのだが、会う人ごとに、きみは変わったと言われることで、実は、まわりが変わったのではなく、自分自身が変わっていたのだということに気づかされたのだという。ヨブ記を何度も読み返したらしい。魂の方は神を信じたがっていたようだ。
ひからびた岩には水の音もない。
(エリオット『荒地』Ⅰ・埋葬、西脇順三郎訳)
水の流れる音を聞くために、
(G・マクドナルド『リリス』42、荒俣 宏訳)
私は眠りもやらず書物に向かってすわりすごした。
(ヘッセ『飲む人』高橋健二訳)
ダイアン・アッカーマンの『感覚の博物誌』第四章に、「poet(詩人)という言葉は、もとをたどれば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(岩崎 徹訳)とある。これを読んで、出エジプト記の第十七章を思い出した。エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル河を打った杖でホレブの岩を打つと、そこから水が出たという話である。アラム語は、キリストや弟子たちの日常語であった。
あの海が思い出される。
(プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章、金子幸彦訳)
すさみはてた心は
(レールモントフ『悪魔』第一篇・九、北垣信行訳)
あらゆることを、つぎつぎ忘れ去るのに、
(ナボコフ『ロリータ』第二部・18、大久保康雄訳)
羅和辞典を繰っていると、懲罰、痛苦、呵責といった意味の単語 poena を見つけた。そばには、詩という意味の単語 poema がある。共通部分poeが、詩人のポオと同じ綴りであることに気がついた。小学生のときは、画家になることが夢だったらしいが、作品の中で語られている理由のほかに、もう一つ、理由があった。画家なら、人と違っていても、そのことで苦しむことはないと思ったからだという。人が自分と違うということを知ったのは、彼が、小学校二年生か、三年生の頃のことであった。
魂が
(ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』第七章、福田恆存訳)
海を見ていた。
(川端康成『日向(ひなた)』)
たやすく傷つけられるものは恒常なのだ。
(オスカル・レールケ『木の葉の雲』淺井眞男訳)
たぶん休み時間のことだったと思う。学校からそう遠くないところで、火事があった。後ろの方から、火事だと叫ぶ声がして、生徒たちが、いっせいに窓辺に近寄った。みんなが、わいわいと騒ぎ出した。その火事を眺めやる顔の中に好きな友だちの顔があった。その顔も笑っていた。誰かの家が焼けているというのに。そこで誰かが苦しんでいるかもしれないというのに。怖くなって、友だちの顔から目を背けた。こう語った後、彼は言った。他者が自分ではないことが、あらゆる苦痛の根源である、と。
沈む陽の最後のきらめきとともに
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)
波の上に
(ポール・フォール『輪舞』村上菊一郎訳)
むすびめは、はじけ。
(ヴァルモール『サージの薔薇』高畠正明訳、読点加筆)