THEN。
田中宏輔


あさ、仕事に行くために駅に向かう途中、
目の隅で、何か動くものがあった。
歩く速さを落として目をやると、
結ばれていたはずの結び目が、
廃棄された専用ゴミ袋の結び目が
ほどけていくところだった。
ぼくは、足をとめた。
手が現われ、頭が現われ、肩が現われ、
偶然が姿をすっかり現わしたのだった。
偶然も齢をとったのだろう。
ぼくが疲れた中年男になったように、
偶然のほうでも疲れた偶然になったのだろう。
若いころに出合った偶然は、
ぼくのほうから気がつくやいなや、
たちまち姿を消すことがあったのだから。
いまでは、偶然のほうが、
ぼくが気がつかないうちに、ぼくに目をとめていて、
ぼくのことをじっくりと眺めていることさえあるのだった。
齢をとっていいことのひとつに、
ぼくが偶然をじっと見ることができるように、
偶然のほうでも、じっくりとぼくの目にとまるように、
足をとめてしばらく動かずにいてくれるようになったことがあげられる。





自由詩 THEN。 Copyright 田中宏輔 2025-05-05 08:58:07
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