四月終わりのメモ
由比良 倖
*1
もうすぐ四月が終わる。一ヶ月間、本当に鬱々していた。今も、見えるもの全てが眠たそうにとろんとしている。僕の視線は何もかもを仮死状態にしてしまう。ヘッドホンを付けて、空をぼんやり眺めている。中国の、何と言うのだろう、水色の青磁(?)みたいに平坦な空。初夏と言ってもいい天気だ。空の向こうでは、きっと星がきらめいているのだろう。でも僕には何も見えない。雲はもう、少しも雪を抱えていない。雨も降らない。空はぽっかりと、純粋な楽園みたいに遠くの方で閉じている。
個人的な存在でいたい。いつも、本来のあり方としての個人性を、脳という宇宙全体で感じていたい。僕たちはみんな、ひとりひとりが宇宙の果てからぽとぽとと落ちてきたみなしごたち。僕も、父も母もまた、そして全ての人類が、独立した宇宙として痛みを抱えている。人は本当は、他人の、そして自分の本当の内面に出会いたくて仕方ないんだと思う。それなのに各々の空間を、まるでひとりっきりで生きている。それぞれ孤独に満ち足りた、あるいは何かが欠落した宇宙の真ん中で暮らしている。
張り裂けるように純粋な赤は何処にあるのだろう? 春の終わりと夏の始まりを縫うように、初夏の風が差し込んでくる。僕は寂しさに揺られながら、甘くて痛い空の底にいる。ナイフ一本で簡単に死んでしまえるこの身体。僕と世界との境界は、そんなに明確ではない。
昔はナイフはそんなに好きじゃなかった。岩石や金属だらけの宇宙では、ナイフは何の役にも立たないからだ。地球というローカルな場所に窮屈さを感じていた。今は、宇宙の何処にいてもこの身体を切り裂けるナイフに魅力を感じている。他には特に切り刻みたいものが無い。
*
音楽は僕だけの思い出を内側から照らしてくれる。
凍るような山際。無音の雪原、氷のようなドラムの音。
感覚に感覚を上書きしていく。思いっきりダウナーな気持ちでいるのが好きだ。身体から十億光年離れた場所にいるような気分で。
*2
本から目を上げて、息を吐いた瞬間、眼の前の全てのものが、可愛く、新鮮に見えたりする。遠い車の音が、心の中の古いおとぎ話の領域から響いてくるように感じる。ふと、「生きてる」と思う。心の片隅に、明るいピンク色の影が差したように感じる。もはや死出の旅への準備中としか思えないような、ぼんやりとした影を纏っただけみたいな僕の心にも、まだ何かしら、生きていることの喜びの残滓のような、これから産まれようとしている希望の萌芽のようなものがあると知って、僕は少し笑う。半分諦めている。そして半分は、ピンク色の薄明かりが心全体に拡がることを願っている。
自分にとっての、他人とは決して分かち合えない、きらきらした感情、孤独の闇の中でまばゆく光るダイアモンドみたいな、鋭い、ほとんど痛くて息も出来ないほどの気持ち。それを忘れてしまったとき、僕はそれを埋め合わせるように、普遍的な考え方が欲しくなるのだと思う。誰か特定の人への、生々しい鼓動を伴った愛おしい気持ちを忘れたとき、僕は退屈混じりに、理想的な他人像を思い描いてしまう。人たちの痛々しい欠点への愛情(パッション?)を忘れてしまう。
西洋哲学と東洋哲学は、ただ肌触りが違うだけなのだと思う。東洋哲学は「切り分けるのはやめなさい」と言う。世界とは丸ごとそのままなのだから、自我をも含めたその全体を感じることが大事で、それが悟りなのだ、と東洋哲学は主張し続けていると思う。世界を手術しないという意味では、東洋哲学は何処まで行っても生理学なのだと思う。空気のような波のような手触りの、その考え方はひたひたしている。或いはのたりのたりと。
西洋哲学はどんどん鋭くなるメスのよう。硬質で、徹底的に精神の病巣を取り除いていく。世界を切り刻み続け、縫い合わせ、レントゲンを撮り注射する。モルヒネやアセトアミノフェンやコデインが跋扈する世界。幸福までもドーパミン、セロトニン、エンドルフィンに換言してしまう。
ヴィトゲンシュタインは極限まで鋭くて、読んでると脳内都市の光度が、真っ直ぐにカットされたクォーツみたいに澄んでいく。その透度の確かさを知覚できることが気持ちいい。ヴィトゲンシュタインの書籍は八冊持っていて、それぞれのクラリティが合わさって出来る、ヴィヴィッドでカラフルな光彩はとても綺麗だ。、、、僕の中でヴィトゲンシュタインの言葉が涵養されて研磨され続ければいい。きらめきの瞬間ごとを、鋭い言葉の中で生きていたい。……僕は元々、生理的にヴィトゲンシュタインが合っていると言うだけで、別に西洋も東洋も無くて、カントだろうがソクラテスだろうが、孔子だろうが老子だろうが、誰にも優劣は無くて、自分の肌に合う人の著書を大好きになって熟読すればそれでいいと思っている。
直に会える肉体を持った人間よりも、人の創作物に恋してしまう。ロラン・バルトは、文章の向こう側に作者はいない(あるのはテキストだけ)と言い切ったけれど、僕はどうしても詩や小説をラブレターのように読んでしまう。哲学書でさえそうだ(ヴィトゲンシュタインを読むためだけにドイツ語を学んでもいいくらい。僕は言葉と音楽はほぼ同一だと感じていて、大事なのは意味よりも、語勢や音やリズムや字面だと思っている。翻訳は音楽に例えるならコピーバンドの演奏みたいなもので、どんなに上手でも、翻訳された時点でオリジナルにある、作者の個人的な思いやリアリティは失われてしまうと思う)。
本の匂いが一番好きだ。新刊の涼しい匂いも、古い本の黴びた匂いも。
*
ぬるく、ぬるく、あたたかく
そして電線のように、光のように
*
――地球が完璧な終焉を迎えるまで。
*
花が枯れるのは、あれは、宇宙を映しているからだ。
――静けさの中に声を忘れてきた蝶。
(驚きをください。)
ルー・リードの悲しさ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの悲しさ。……
(どんな怖れだっていい。)
世界の終わり。全ての建物は、葬儀を終えてみんな帰った後の墓地のように真っ暗で、人々が命をかけて描き続けた物語は風に吹かれて舞い上がり、あるいは轢かれた小鳥のように濡れた地面にへばり付いている。
狭い場所にいると、世界が深く感じられる。夜中、この国の誰もが眠りに就いた時間が好き。先月、机の上に、庭に咲いていた木蓮の花を飾っていた。庭に咲いていたのをふと嗅いでみたら、ものすごくいい匂いだったから。木蓮(マグノリア)の香水を買ってみたい。
*3
社会性や社交性が僕にとってどれだけの価値があるだろう? 家にいる。ひとりでいる。ネットの世界はカラフルで好きだ。
テレビなんて部屋に置いたこともないし、ゲームも持っていない。iPhoneもほったらかしにしていて、友人からのメールに丸二日間気付かなかったりする。
ウォークマンが命綱かもしれない。その前はiPodが命綱だった。ヘッドホンの中にいる僕を、誰ひとり侵害できない。一日の半分以上の時間、僕は音楽を聴いている。スピーカーでもよく音楽を聴いている。ヘッドホンとはまた違う、空間が音に染まる感じが好きだ。今は、これを書きながら、ヘッドホンでストーン・ローゼズを聴いている。
他には何をしているかと言うと、読書をしている。書いている。ギターを弾いたり、歌ってる。考えてる。他には何もしない。退屈という言葉は、実感したことが無いので、よく分からない。
ウォークマンに電源ケーブルを繋いだまま聴いていると、コンセントを通して、遠い発電所と繋がっていると感じて気持ちいい。僕の部屋の電気は、原子力発電所で作られているらしい。百キロメートル向こうの、青白い核分裂。そして三十五年前のストーン・ローゼズの演奏。ギター、ドラム、ベース、ヴォーカル。世界には何ひとつ断絶が無い。全ては電線と光ケーブルで繋がり合っている。眼には見えない配線でストレートに僕は銀河と繋がっている。全ての街は繋がっている。
銀河の中心にはブラックホールがあるらしい。僕たちが住む天の川銀河の中枢にあるブラックホールは、全宇宙の中ではかなり小さめなのらしい。ローカルな宇宙都市。田舎の中の田舎の地球。そこでうごめく僕の憂鬱。僕は宇宙よりずっと広いのだろう。この一瞬も無限に、永遠に。都市があり、光に満ちた楽園がある。僕の内面で、松果体で、言語野で、シナプスたちがきらきら光る。電気に満ちた脳と、深海に満ちた無数の細胞たち。
知識は僕をどんどん膨張させていく。僕が世界からはみ出るくらいに。植物の名前、学名。英語の医療用語。世界史と宇宙史に興味がある。
*4
社会性。自分の品位と、他人に対しての礼節を保つこと。「あなたも私も動物ではありません。節度を保ってこの社会に生きる真っ当な人間です」という意思表明。例えばその為に清潔で目立ちすぎない服を着る。社会人であるために。言動は丁寧に、でも時にはくだけたことも言う、相手との目には見えない距離感を察知し、相手ごとに態度を変えるバランス感覚も大切。すごくしんどい。けどしんどいとは言わない。
人を疑うこと、でも疑いすぎてはいけない。信じることも同様。「家族は社会の最小単位だ」ということを孔子は言ったけれど、家に帰ると途端に社会人をやめて横暴になる人だっているし、仮に家族が社会の縮図なら、僕は社会なんて嫌いだ。人と人とが本当の意味で付き合えるのって幼稚園までじゃないかと思う。
社会の中での自分の立場を認識すること、行き過ぎない程度に自己を表現すること。めんどうくさい。「自分は宇宙だ」と言ってたら敬遠されるから、憂鬱ではあっても部屋の中で自己表現する。言葉は誰でも使える。言葉で表現できる。パソコンがあればいくらでも書くことが出来るし、率直に内面を吐露することだって出来る。
無理に笑い続ける一日ほど、僕から生命力を奪うものは無い。だから、笑うから楽しいというのは嘘だ。最高に楽しいときには、僕は笑わない。呼吸だって浅い。身体なんて忘れてる。自分の世界で真剣に遊ぶとき、世界の全ての扉が開くとき、自愛も他愛も無いけど全てが愛であるとき、自失状態に完全に陥ったとき、ナチュラルハイの中で、性欲や人間関係や、くだらない暇つぶしよりもずっと楽しいことがあると気付いたとき、僕は変容していくし、音楽と言葉が存在する世界に生きている幸せを惜しみなく感じる。そういう、トランスっぽい時間に入れることは本当に本当に稀有だけど、段々その場所に、近付いていると感じる。昔は、ひとりの時間には、いつもそこにいた。そこから見れば、人間世界のドラマの数々も楽しくて、人たちの感情の渦中でぐるぐる回っている自分も含めて、とても美しいと感じる。みんな形の無い幸福を探してる。日本人は日本語の世界の中で、外国人は外国語の世界の中で。
感情表現だけを取ってみても、「辛い」とか「悲しい」という言葉で、僕のこの本当の辛さや悲しみや苦しみが表現できるわけじゃないし、本当に辛いときには、日本語にネガティブな心情を表す言葉が少ないことにがっかりする。口癖みたいに辛いとか苦しいとか死にたいとか言ってても、共感とかは全然得られなくて、いっそ地球上の空気が稀薄になって、皆が呼吸困難に喘ぐようになればいいのに、と願ったりする。精神的な苦しみは、実際命に関わる苦しみだから。
今すぐ死にたい衝動……絶望に落ちるのは一瞬でも、そこから這い上がることは自力では不可能にしか感じられなくて、助けてくれる手の存在とか、地殻変動でも起こることを祈るしか毎日をしのぐ方法が無い。僕は穴の底でネズミや毒虫に纏わり付かれ、自分を傷付けることで恐怖を誤魔化し続ける。祈りと願い、呪いと悪夢。
病的な時間は半永久的に続く。見上げる風景や、過ぎていく人々がみんな、悪い夢のようにしか見えない。永久の中には奇跡もある。助かったら助かったで苦しい記憶はすぐ忘れて、役に立たない教訓だけが残る。
正しい選択の連続が、正しく幸せな人生に繋がるとは限らない。人生は選択の連続ではなく、偶然のどうしようもないことの連続だから、人の成功体験は宛てにならない。心の持ちようは心に裏切られ、時間自体が病んでいく。結局は自力で手に入れられるものなんて何ひとつ無い。ただひたすらに、偶然の連続を受け入れるしかない。そういう教訓。
一生病気のまま寿命を終える人もたくさんいる。僕は生き残った。何故かは分からない。地下から水でも湧き出して、たまたまぷかぷか浮かべたのかもしれない。苦しみからは何の経験則も得られない。自力で助かる方法はひとつも無い。そして、いつまた世界の亀裂にすとんと落ちるか分からない。「あ、落ちる」と感じることの恐怖からは、正反対に走って逃げるしかない。薬を飲んで毛布にでも包まれるくらいしかない。
世界には答えは何ひとつ無い。僕の心だけが答えだ。どんなに大きな賛辞も、名誉も、褒め言葉も、全部移ろいゆくだけ。
一瞬の内に永遠を感じるくらい、時間感覚を超えて無心になること。音楽を聴いたり、本を読むことの幸せ。書くことの快感。大好きな人のことを、自分勝手に遠くから祈ること。ひとりぼっちで泣いている、もしくは泣けないくらい苦しんでいる、今この瞬間の数十億の人たち。世界中の人たちの渇望と、会話と、喧嘩と呪いと、寿ぎの声。ギターの存在と音、そしてイラストレーターたちが描く世界の、光の束が脳の一番奥を突き通すくらいの可愛さ。大好きなアニメ。……そしてそれらを好きであれるということ。
運命は自分では決められない。でも、視点を決めることは出来る。それくらいの自由度はあってもいい。実際のところ、僕は幸福でも不幸でもない。
*
人間であれればそれでいい。それ以上は何も求めない。中原中也とニック・ドレイクが生きていたこの地上に僕も生きていたい。聖人になんかなりたくもないし、神さまとお近付きになれなくてもいい。
初夏の風。アクセサリーは眼鏡とネックレス以外付けたくない。マグノリアの匂いの香水だけを付けていたい。
昔僕は、「せっかくの人生だから、一回くらい最高の苦しみを味わいたい」と思っていた。実は今もそう思っている。刹那刹那を生きている。
*5
自分を虚しさから救えるのは自分しかいない。僕の中には、確実に満ち足りた場所がある。それは分かってる。自分の内面にアクセスすることが出来ないだけで。仮に今すぐ百億円を貰ったとしても、僕はほんの少しも幸せにはなれないだろう。僕の持ち物や外面がいくら改善されても、それは僕自身にはあまり関係が無い。
今の自分が嫌いだ。でも、かと言って将来どうなりたいか、具体的なヴィジョンを何も持っていない。近い内に死ねばいい、と思うことは逃げだろうか。何から逃げているというのだろうか?
僕が何故生きているかというと、自分を捨てたくないからだと思う。死ぬくらいなら自分を取り戻したい。僕は来世を信じていないし、死後の永遠も信じていない。現世の快楽主義も信じていないし、刹那的な快感を重ねて行くことなんて、考えただけで疲れる。財産とか称賛とか自分が特別な人間であるという錯覚とか、約束された幸福の、移ろいやすい薄っぺらさとか。人が羨むものを全て得たところで、虚しさは今よりずっと深くなると簡単に想像出来る。成功者を羨ましいと思う気持ちも、全然湧いてこない。
「消えたい」という言葉が、今の僕の気持ちを一番ぴったり表している気がする。感情より論理を大切にしましょうと言う人もいれば、論理を超えた感情こそが人間の幸せにとって大切なものだ、と言う人もいる。けれど僕は、論理的に、計画的に得られるであろう社会的な成功には、もちろん興味が無いし、感情的な喜びは一時的なものなので、それも欲しくない。喜びの後にはすぐに虚しさがやって来るからだ。
僕は忘我や自失、非在することに興味がある。僕が詩人や作家、ミュージシャンに憧れるのは、彼らが音楽を作るのではなく、音楽が空っぽになった彼らに取り憑いていると感じるからだ。あるいは自分よりもずっと、人を幸せにしたいという優しさを感じるからだ。自分自身は何ものでもなく、ただ言葉や音楽の通り道に過ぎない。そういうあり方が、僕にとっての理想だ。
(どんなに静かに生きていても、揶揄や批判は受けるのだ。悪人呼ばわりされることさえある。それなら寧ろ、言い過ぎるくらい、人には出来れば、自分を抑えないで、自滅はしないで、あなたが生きているだけで嬉しいのだから、と言い続けていたい。多分誰よりも、自分自身に対して。)
もし、この世で誰かひとりを救えたら、その瞬間に死んでもいい。
言葉では何も説明出来ないときには、泣き叫べたらいいのに。薬を飲むと泣くことを先送りには出来る。でも、いつかは泣かなければならないと感じている。言葉を書くことで泣けたらいいのに。書くことと泣くことが同じならいいのに。
(耳鳴りがするほど寂しいことばかり。)
ずきずきする感じ。感情の骨、棘。真夏の色。予感が色褪せていく。
心の中の小さな箱に個人的な秘密を入れていたい。
空もまた歳を取って行くのだろうか? 細胞が老いる音で音楽を作りたい。細胞が分裂する音を録音したい。孤独と悲しみから救われたくなんかない。孤独と悲しみをもっともっと深めて欲しい。僕は、ひとりの人間として、ひとりで泣いていたい。