音楽と詩⑧
大町綾音

◯おぼろん……

おはようございます。

今日も引き続き。昨日の流れで、「音楽と詩の言葉」とか、要約すればそんなふうになる流れでお話ししたいかなと。

で、例えばわたし、童謡の「かごめかごめ」とか好きなんですが、こういう歌詞って、詩にはない独特なものですよね。

「イエロー・サブマリン」とか「ジャンピン・ジャック・ブラッシュ」とか「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」なんかもそう。

文学の世界だと人麻呂とか朔太郎とか、ごく一部に不条理の条理を中心に組み立てられた詩もありますけれど、基本としては、日本の場合早い段階で抒情詩や心理小説・心境小説の伝統が作られたこともあってか、一本筋の通った詩じゃないとなかなか受け入れられない事情があるように思います。

◯おぼろん……

音楽の世界だと、こうした表現的アナーキズムに親しい、というのにはどんな事情があるんでしょうね。

◯おぼろん……

ただ単に文字としてはまだ記号化されていない、というところから、制約を逃れているだけ、とも思えないのですが 

◯おぼろん……

音楽はやはり「意味を超えやすい」というのはあるかな、と。

◯おぼろん……

逆に、伝統的な詩がどうして「意味にとどまりやすいのか」というのも不思議なところです。

◯ひだか……

おはようございます♪

はい、じゃあそのテーマで引き続き。

童謡、あゝ解ります。

なんで音楽のそうしたいわゆる歌詞が表現的アナーキズム、意味性を超えた、呪力魔力を帯びたものになってくるのか?
それは、音楽そのものが動的イメージとしての言葉を喚起するからだと、まあ、端的に言えば。
(一例として、ボノなんかはU2の特に初期の頃、演奏にの渦中で意識の流れのままに即興で歌を創り上げてたそうで、それをしてメンバーはボノ語と呼んでいたそうで、そのことは、U2のライヴ映像や音源を聴くと凄くリアルに突出して来る)。

音楽は意味を超えやすいというより、本来本性としての音楽は外的感覚的モデルを持たない、その意味で意味不在の意味性の響そのものだから(平面次元でしか語らざるを得ない言葉文字はこのような矛盾した表現しか出来ないのですが)、ではありませぬか…

と取り敢えず。◯√

◯おぼろん……

「本来本性としての音楽は外的感覚的モデルを持たない」──なるほど。

推定の範囲内ではありましたけれど、たしかにそうなんでしょうね。

音は音波ですから純粋に物理的な存在のはずなんですが、その本質は波で(も)あって、それ以上に勝る抽象表現はない、ということにもなる。具体的に音楽について語った哲学者とかいます? ニーチェくらいかな、とくに有名なのは。「悲劇の誕生」は読んでいるはずですが、そこまで深く思うところは、わたしにとっては当時なかったかも。純粋に想像のみに基く論文だからですが。今は失われたと思われていた古代ギリシアの音楽もずいぶん発掘されているみたい。

◯ひだか……

そうですね~実は、音楽については、シュタイナーが詳細に語ってまして…

音波としての或いは空気振動としての云々は、まあ、おぼろんさんも認識済みでしょうが、
聴覚体験としての音響音楽を運動視覚体験としてのそれに置き換えただけなんで、実は音楽の本質については何も語って無いわけで。それが先ず大前提として。

で、ちと今、整形外科で腱鞘炎の診断受けて麻酔注射打って貰い、後、処方箋貰うのを待ってるところなんで、帰って落ち着いたらまたメールしますね。

なんか在れば、入れといて下され!

◯おぼろん……

了解。

まあ、待ちます。今日は急ぐでもないでしょうし。

◯ひだか……

あ、因みにニーチェの本に関しては、僕はツァラトゥストラくらいしか読んでないんですよ、
あの文学とも哲学ともつかない大仰∧抽象的な文体が苦手で(故高橋巌師に言わせれば、訳文が哲学者に依るもの故に最悪だと。白水社から出ている全集が最良だそうです)。

で、「悲劇の誕生」も高橋巌師による概説くらいしか読んでなく、ただあの題名も大問題で、実は、正確には思い出せないのですが、「音楽の霊からの云々」だと。ダイレクトに音楽の霊とニーチェは言ってるわけで、またシュタイナーは、ニーチェの弟子的な存在で(「発狂する前のニーチェが私の理想の人」みたく言ってて、実際、発狂後のニーチェを見舞ったりしてて)、ニーチェの妹から遺稿集の編纂頼まれてたり、ニーチェに関する本も出してたりするんですね。

◯おぼろん……

「悲劇の誕生」……読んだのはたしかちょうど20歳のときですから、もう30年以上前になりますけれど、タイトルが変えられているというのは忘れていました。まあ、内容との懸隔もなかったとは思いますが、例えば小林秀雄の「モーツァルト」なんかもすでにあった時代に、音楽について学べる要はなかったかな、という。

後にCD屋で買ったマルグリット・ロンの「ラヴェル:回想のピアノ」のほうがよほど役に立ったかな。この本はわたしが批評を書くようになった時に参考にした本のひとつなので、ひだかさんにもおすすめしておきますね。古本はものすごい値段になっているようですが……

たしか原題は「Aux piano avec Maurice Ravel(モーリス・ラヴェルと一緒にピアノを)」というもので、ほとんど同じタイトルのドビュッシーに関する著作もあります。

短い本ですが、音楽書のなかでは比較的よく知られている名著だったような(著者は印象派のピアノ曲のプレイヤーとして知られている人です)。

◯おぼろん……

シュタイナーも音楽に関する著作があるのですね。ちょっと読みたい本リストに入れておきます。

◯ひだか……

参考本、ありがとうございます♪

因みにシュタイナーの音楽本『音楽の本質と人間の音体験』(イザラ書房)が在りますが、ある程度『神智学』や『神秘学概論』くらいはきちんと体験しておかないと解りにくいかと。
他にもショーペンハウアーの音楽論から解りやすく述べた講演所収本があるのですが、こちらは絶版なので。

で、さっきの続きですが、おぼろんさんの問い掛けの後半、

伝統的な詩がどうして「意味にとどまりやすいのか」とのこと、

それは、詩表現がいわゆる文学性に埋もれてしまい、文字言葉に書き言葉に依存してしまったこと、言葉本来の音楽性を忘却してしまっていることが大きいのでは、と。
要するに、余りにも詩想を欠いて居るのだと。はい♪

◯おぼろん……

シュタイナーの情報、ありがとうございます。

読まないといけない本が数年前からずいぶんたまってしまっているので、今はとりあえずメモしておきますね。

「詩表現が文学性に溺れる」というのは、多分正確なのでしょうけれど、皮肉ですね。

出版文化の衰退なんて言われますけれど、そういう見方をすれば、詩はすでに100年前には死んでいたのかな、と。

◯おぼろん……

これは、「音声としての、魂の交感としての、詩の言葉の復権」とかテーマにしないといけないかな……今すぐにはいやですが(ためいき)。

◯ひだか……

やっぱり僕は音楽畑から表現のルーツとしてのロック・ミュージックから最終的に、なんてかその穴埋め?最も音楽性に近いものとして詩表現に行き着いた人間なので、
逆に、文学性っていうものからは切断された詩のエッセンスが最初から観えて居る、そういう利点はあるかもしれぬ…等と傲慢にも。w。

でもね、なんかホント、今の僕自身は生活営為・諸作業の一環として詩表現が在るんで、
音楽から切り離された処で成立して居る(かのような)詩作品、何時迄も言葉と云う存在の根源へと「意識的に」向かおうしない詩(書き人)には、いくらテクニカルに優れていても違和感しかないですね。

詩の音楽の詩の言葉 、こういう発想は、むしろいわゆる詩人より、坂口安吾のような散文表現(特に『木々の精、谷の精』に顕著に観られる)の方がよっぽど響くのです。
間違っても太宰治なんかにはいかないし、ましてや両者をごっちゃ混ぜにしてさも教養あるでしょアタシ!なんてマジ信じられないッス(笑)。◯√ゝ

◯おぼろん……

いや、太宰治はこのごろいいと思います。それも含めて、少し長く。

安吾については、このごろ堕落論の朗読を聴く機会があって。高校の時の友人が当時安吾にはまっていて、私は全然対照的な小林秀雄に早くからはまっていたから、安吾に惹かれるものはなかったんですが、あれひだかさんがおっしゃる通り、音楽というか歌ですね。

新潟の出身ではあるけれど、旧家の出で、太宰治とは対照的な都会人でしょう、だから演歌なんですよ。太宰治は民謡。

◯おぼろん……

それでまあ、傲慢ということはないと思いますよ、でなかったら、なんの保証もない文学という海のなかで正気を保てるわけがないのですし。

◯おぼろん……

ひだかさんの創作が音楽に根ざしていて、そこに萌したものであるということは、強みでもあるのでしょうけれど、呪いでもあって。意味だけで語る人が楽だとは、さすがにこのごろのわたしは思わないですけれど、そうした「宿命で書く詩人」というのが本当に少ない、ということは思っています。

◯おぼろん……

詩人の「宿命」について語ると、それも音楽の枠を軽く越えますから、ここでは軽くにとどめますけれど。

◯おぼろん……

今調べてみましたけれど、まだ3800字くらいなんですよね〜。

文字数がすべてを決定するはずもないのですけれど、エッセイなら最低1500文字、コラムなら最低5000文字くらいないと、真実というのか、一つのテーマについて語るのは難しいですね。

ということは今日はまだ不足なんだけれど、言葉とか音楽性とか、言語の独立性とかについてはある程度語られていて、具体的に何が不足しているんだろう。また、昨日みたいに予告篇にするわけにもいかないのだけれど、これは棺桶というか真理の牢屋に片足突っ込んだ感じかなあ。

今回完璧はもう求めていないのですが……

実は次回、テーマとして「比喩」および「比喩性」について、どうかと思っているんですよね。「比喩性」は、簡単に言えば隠喩(メタファー)のことを言っています。拡張して物語性、とも。詩に外的物語は必要ではないですけれど、内的物語はかなりの確度で必要になるわけで、まあ、そうしたもろもろを見て行くのも面白いかなあ、と。

独り言ですが。

◯おぼろん……

まあ、とりあえずは音楽に話を戻しましょう。

あ、そうだ。すっかり忘れていたんですが、今日これを始めるにあたって、ビートルズとストーンズまでバックするか、ハイスイノナサみたいな現代まで下るか、とかそういうことを考えていました。ハイスイノナサは、先行者ありそうですけれど。

◯ひだか……

こんばんは♪

ちと遅くなりました。

えと、腱鞘炎なので、一つずつ、

坂口安吾については、おぼろんさん、『木々の精、谷の精』読んだ上で演歌と言ってるんすか?嘘っショッ!

読んでないと想います。なので、グーグルから検索すれば、青空文庫で読めるから、是非読み込んでから再判断、ぜひぜひ願いまする(*´Д`)√

◯ひだか……

呪い、…、まあ、宿命は感じますがッ△―

◯ひだか……

真理の牢屋…ふぃ〜まあ、「音楽」と「詩の言葉」が未だちゃんと結び付いて無いからじゃないかと。

◯ひだか……

え、もう次いっちゃうんすか??

ちと早いでしょ?

バックするか、下がるか???あの、繋がりというか文脈がよく見えないというか…◯…

以上、取り敢えず。ゝ

◯ひだか……

追伸

呪い、って、僕はロックにロック呪縛されて居るのですか?

◯おぼろん……

う〜ん、演歌っても昔は反逆の表現だったわけで、何も氷川きよしとかの演歌のことを言っているわけではないですよ?

呪いは、これも伝統的な詩の言葉としての呪いで、宿命くらいのニュアンスなのですが……

ん〜、さきばしったわけではなくって、今回のテーマのなかでは収まりきらないものがあるのかな、と思う中での独り言でした。

◯ひだか……

あゝ演歌、へいへいホォ…納得です。
やっぱり、同じ言葉でもイメージするものが微妙に絶対的に違ったりするわけで、、
ここらへんこそ、ますもって、言葉、特に文字言葉の問題なぞなぞ…◯…√

あ、はい、宿命、よく解りまする!
今さっき迄、おぼろんさんにお勧めしたキンクリのコンストラクション〜ライトを聴いてて、
あ〜やっぱ、人それぞれ自らの宿命を自ら律し併せ鳴らし響かせ得た瞬間の時を引き裂き、
こういリアル現実の到来するんだなっ!と。

や、先走りとは言ってないって!もう次にいくのですか?と、飽くまでも問い掛けとして
うん、たから独り言へ独り言として応じたつもりでした。(汗)

◯おぼろん……

まあ、焦りがあるんですよ、私に。

テーマを満たすのに全く足りていないんだけれど、すでに十分な長さは費やしているはず、という。

何か、大事なこと、すでに知っていることをみおとしている感じがちょっとして。

◯ひだか……

質の問題がっ!と…?

◯おぼろん……

なんかね、何か忘れていて、言われればそうだったって思うような予感がするんです。

◯ひだか……

「音楽」と「詩の言葉」がちゃんと結び付いて無い、じゃなくて、
おぼろんさんが抱えて居るはずのものが意識化出来てない! と?

◯おぼろん……

そうです、たとえば今日の冒頭でビートルズとストーンズの名前を出しましたけれど、そのときに意識していたのが西洋の吟遊詩人の文化で、わたし、コロンブス時代の歌謡曲とか聴いていた時期があるんですけれど、これも「原点回帰」でロックの世界では外せないところだよね、と今思い出しました。

◯おぼろん……

なので、けっこう穴だらけになってしまっています、たぶん。

◯ひだか……

「原点回帰」って ですね(笑)、ロックには原点回帰が(も)外せないと。

◯おぼろん……

や、たぶんひだかさん、中世の歌曲までは聴いてないんじゃないかな、と。それを出さないといけなかったです。

◯ひだか……

聴いてませんよ、でも
その中世の歌曲がロック・ミュージックに繋がり更に今回のテーマにも繋がると?

◯おぼろん……

昨日あたりに出てきた大きなテーマでは、今回はとうていまとまらないので。最低ロックというか、ポップスについてはある程度正確を期する必要があるんだろうな、という。

◯ひだか……

え?すみませぬ、
昨日あたりに出てきた大きなテーマとは何でしたっけか?

◯おぼろん……

ひだかさんが言っていた「詩の言葉とは、それが表さんとしていることが外的感覚的モデルを一切持たない折に独自に生きる、と。」のあたり。

◯ひだか……

うーん、そのことでしたら、詩は飽くまでも素材として今の指示言語を使用するが故に意味性を帯びてしまう、その一方に本質的な次元での音楽表現が在るでしょ?と。

あのぶっちゃけ云いますと、あっち側は音響ヴァークの世界次元なので、人間存在は今のところは無意識の内に睡眠時にあっち側に入り浸りヴァークから賦活エネルギーを貰う、
その音響ヴァークをこちら側での音響として鳴り響かせる聴覚器官を持って生まれた人間が無意識の内に(憶えて居る人も中には居る)音楽音響表現をするのだと。

だから、より一番にダイレクトな模像なわけですよ、音楽は。

だから、そういう意味合いからすると何も中世歌謡曲迄遡ることなく、今の音楽素材で充分では、と僕は想いますが…

なので、

◯ひだか……

御免なさい、ちと痛み限界にて

メール、自由に入れといて下さい。

おやすみなさい♪

◯ひだか……

追伸

今夜作品は、そこら辺、今の僕に出来得る限界迄追い詰めました。

◯おぼろん……

了解です。

ひだかさん的に解決しているのであれば、それはそれで。

おやすみなさい。ノシ

◯ひだか……

僕の脳髄に響き刻まれて居るのは、
この世界の内なる向こう次元の創造する原音響の、飽くまでも痕跡刻印としての音響です。

解決というより、認識としてそこは既に救われて居ると。

ケージ聴きながら眠りまする。

おやすみなさい♪

◯おぼろん……

明日どうなるか分からないのですが、とりあえず今日の分はアップしてしまいますね。

おやすみなさいませ。ノシ


散文(批評随筆小説等) 音楽と詩⑧ Copyright 大町綾音 2025-04-30 10:50:03
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