理由が知りたいけれど
ホロウ・シカエルボク


ホテルの部屋には窓が無く、代わりにとでもいうように壁一面がゴッホの絵で埋め尽くされていた、寝室の贋作だ…寝室の壁に寝室の贋作?いったいどんな意図でこういう部屋を作るのか、空調がはっきりとわかるくらい丁寧に稼働していて、窓が無いことの不具合は別に感じなかった、窓があったところで開けたことなど無い、一晩眠ることが出来ればそれでよかった、寝室の中に寝室、旅の疲れを癒そうとシャワーを浴びながら何度か呟いてみた、シンプルにきちがいじみている、寝室の壁に寝室の絵、まともな発想じゃない、いままでそんな部屋で眠ったことはないし、今後そういう機会も二度と無いだろう、もちろん、この部屋をわざわざ予約しない限りは―ネット予約だった、サイトで見た部屋の写真はまともだった、でも考えてみれば、あれはおそらくシングルルームの写真だった、ツインルームの写真は確認しなかったわけだ、もしそうならそれは俺の落度だった、確かめるには面倒臭いし、ごねる気もなかったのでもうこの部屋を受け入れることにした、味気ない普通の部屋に泊るよりはいいかもしれない、そんな気も少しはあった、でも、そんな意外性はホテルの部屋に求めてはいない、一応納得はしたものの複雑な気分ではあった、まあいい、なんのプランもなくただ一番出発が近かった電車に飛び乗っただけの突発的な旅だった、大型連休前に駅近の宿が取れただけでももうけものというわけだ、シャワーを終えて、駅前の電化店で買った充電コードをスマホに差し込んで、何本か買っておいたペットボトルを飲みながらひと息ついた、時刻は夕方で、ローカルニュースをやっていた、どこそこの神社で春の恒例神事とか、そういうニュース…幼いころから知らないところへふらふらと歩いていくのが好きだった、歳を取れば落ち着くのかと思っていたが全然そういうことはなく、むしろ距離も日数も悪化した、知らない土地に行ってビジネスホテルに宿を取り、一夜を過ごす、本来は自分が存在していない街、本来なら自分が存在していない夜の中で―旅は自分自身の存在が希薄になる、まとわりついてくる日常というものが一切存在しなくなる、幽霊にでもなったかのような自由がそこにはある、そしてそんな感覚の中で、いつもは感じることの無い剥き出しの自分を目の当たりにする、ホテルの部屋には巨大な姿見がある、そこに写った自分は人生で一番正直に見える、旅をするように人生を生きることが出来たら幸せだろうな、そんな風に思うこともある、まあ、そんな話を長々としても仕方が無い、ニュースが終わったら少し街を歩く、本屋を覗き、CDの店を覗く、どこに居ても行くところは変わらない、珍しいCDを一枚買う、それで旅行としてはお終いだ、観光地やイベントなんかに出掛けたことなど無い、旅とは知らない場所でどこかに泊まることだ、個人営業の古めかしいレストランで食事をする、初老の店主がひとりだけでやっていた、客は俺ひとりだった、特になにがある街でもないのだ、小さな商店街が駅前にあるだけの、よくある街、とはいえ、どの店も営業していたから、なんとなくで続けていけるくらいの稼ぎはあるのだろう、店主は話好きだった、食事をしながら色々な話をした、俺が住んでいる街のことを彼は知っていた、まあ、歴史好きな人間なら誰でも一度は訪れるような街だ、料理はまあまあといったところだった、絶賛されることはないが、文句を言われるようなことも無い、そういう、よくある店のよくある料理、コンビニで週刊誌と、朝飯用の大豆のバーを二本買って部屋に戻った、寝室の壁に寝室、部屋に入るたびにそう口にしてしまう、おそらく今夜一晩だけじゃ慣れることもないだろう、シンプルにきちがいじみている、だけどそう、もう一度泊まるかどうかは定かじゃないけれど、この部屋のことは旅をするたびに思い出すだろうな、それは間違いなかった、歯を磨いて、寝る時の照明をどうするか考えた、どうせなら絵が見える程度の照明をつけておいた方がいいかな、なんて妙なことにこだわったのだ、幸いなことにダイヤルで明るさが調整出来る証明だったので、寝室の絵がいい感じに映えるような明るさにしてベッドに潜り込んだ、数時間ほど眠って目が覚めた、何かの気配が充満している、人間じゃない、実態を持たない何かの気配、薄明りに照らされた絵を見る、特別変わったところはなかった、でもこの部屋に満ちた気配とその絵が無関係とはどうしても思えなかった、だからこの絵がここにあるのだ、と納得出来るようななにかが欲しいと思ったけれど、残念ながらそういうった出来事はまるで起こらなかった、ただひとときおかしな気配に悩まされただけですぐに眠ってしまい、気がついたら朝を迎えていた、窓が無いのに朝だということをちゃんと理解出来ることが不思議だった、そういえば他に宿泊客は居ないのだろうか?どこかで誰かが動いている気配がまるで無かった、もう一度シャワーを浴びてすっきりと目覚めた、身支度を整えて部屋を出た、エレベーターは無重力のように動いた、フロントであの部屋のコンセプトについて説明を求めようかと思ったけれどやめておいた、「当ホテルにはそのような部屋はありませんが…」なんて、困惑顔で言われたらどんな返事を返せばいいか相当に困るだろうと思ったから。



自由詩 理由が知りたいけれど Copyright ホロウ・シカエルボク 2025-04-29 22:28:48
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