ヤカンによるラカンのハルキ
室町 礼

ジャック・ラカンはいった。

 われらが勃起性の器官は √-1 と等価だ。
  
√-1 は方程式 x2=−1の解として定義される虚
数単位 i を表す──そうです。
「そうです」というのはyahoo知恵袋からの抜
粋でわたし算数ぜんぜんできませんから。中学
ではいつも通信簿五段階評価0でした。
中学の三年間、全学期通じてオール0ってのも
今から考えると凄かったなと思うんです。
いまだに「つるかめ算」もできません。ですか
ら算数の常識に関してはまったく無知です。
でもまあその後、図書館で本を借りて独学をし
てやっと高1の微積分くらいはできるようにな
りましたが微積分程度なら小学四年生でもやれ
ば出来ますしね。微積分より「つるかめ算」の
ほうがわたしには遥かに難儀です。
要するにわたしの脳みそは計算に非常に弱い。
ところでラカンをふくめ、日本でブームを起こ
したフランスの構造主義思想家たちもあまり算
数はできなかったみたいで軒並み数学を比喩的
に使っていたようです。そため「ソーカル事件」
を引き起こしました。
ソーカル事件というのは米物理学者アラン・ソー
カルがデタラメな科学論文をわざとポストモダ
ン文化研究誌に投稿したにもかかわらず、
査読の上、採用されてしまった事件をさします。
その後ソーカルらは「ジャック・ラカン、ジュ
リア・クリステヴァ、ジャン・ボードリヤール、
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、リ
ュス・イリガライ、ブリュノ・ラトゥールなど、
ポストモダンやポスト構造主義の著名な思想家
たちが、科学的・数学的概念(例:量子力学、
集合論、相対性理論など)を不正確かつ不適切
に使用していると指摘」した。(「」はAI=Grok
からの引用)
冒頭の、ほぼ現代詩といってもいいラカンの数
式を使った衒学的な発言は、虚数 i が実数を定
義できる性質を用いて、おれの理論は虚数すな
わち無意識の領域の学であるが、それによって
リアルな現実も洞察できるのだぞお、とでもい
いたかったのでしょうか。
あるいは性的な欲動は虚しいものだとでも。
もしそうなら現代詩のような比喩表現であると
もいえます。つまり科学的に厳密な批評理論で
はないのです。
でも、

  われらが勃起性の器官は √-1 と等価だ

という言説をみれば学生たちはそこに何か凄い
真理を見出したくなるものです。
だって高い授業料払ってるんですから。それに
見合った凄いなにか秘密の魔術的真理を手に入
れて他の学徒や学者を知的にしのぎたいもので
す。とくに新しいもの好きの日本人は。
ラカンのいう「勃起性の器官」とか、ファルス
が現実には「不在」だとかいったことはフロイ
ト出現後、どこでもいわれつづけた三番煎じの
常套的精神分析学的解釈の踏襲であって、中味
自体は別に大した見解ではない。でも「表現」
次第では凄い理論にみえる。学生は悦ぶ。
......
ラカンは悪い意味での「現代詩人」だったんじゃ
ないでしょうか。いや、それは
ジュリア・クリステヴァもジャン・ボードリヤー
ル、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、
リュス・イリガライ、ブリュノ・ラトゥールら
もそうでしょう。表現豊かな詐欺師、いや、現
代詩人だった。
でも現代詩をあまり読んだことがない人はまるで
科学的で論理的な心的現象の最高度の秘密に満ち
た記述のように誤解するのかも。いや、誤解した
がるのかも知れない。
かれらにとっては講談であっては困るのです。た
んなる辻褄のあった妄想や物語であっては困る。
そうじゃなく最先端の難解な思想でなければ人よ
り抜きん出られない。
わたしの知人にもそういう人がいて天丼を食べに
いったに過ぎないのにその行動までもいちいち
象徴界・想像界・現実界といった領域に区分けし
てその行動を説明し、鼻高々に「どうだ、凄いだ
ろ、わからないだろ、へっ、この無学な庶民めが
あ」と口に出さないけど鉛筆なめなめ書いている
方がいた。これは狷介なわたしのかってな想像で
すから本人は真剣だっのかもしれない。創価学会
やキリスト教やオウムの信者のように心の底から
ラカンを信じていたのでしょう。
(わたしはラカンより自分の洞察を信じてほしい
と願うのですが、どうしてか日本人は自分の洞察
を他人に委ねたがる。ラカンが「不在」という概
念を提出したときどうして「不在」=「実在」で
あるというあたりまえの日常に気がつかないのか?
だってファルスの励起があるためにはその前にフ
ァルスの弛緩がなければならない。つまり一見、
別々な現象をみせるけど、その現象は二つで一体
のものなんです。あらゆるものがそうです。欠如
というけど欠如は充足がなければ欠如もない。人
間は欠如だけの存在でもなければ充足だけの存在
でもないのです。わたしのこの見解がたとえ幼稚
だったり単純だったりしたとしても自分で考えた
ことを大事にしたい。なぜならそれがわたしだか
ら。どうして今どきの日本人はだれもかれもが自
分を他者に委ねるのか、まったく不可解──)
さてその御仁、まだ40代なのに美食がたたって
脳梗塞で倒れて大好きな物も食べれなくなった。
そして
何故かラカンを振り回さなくなった。
斎藤環のような学者よりは目覚めがはやかった。
でも、どうしてフランス文学、思想を日本人はあ
りがたがるのでしょうね。フランス文学や思想の
衒学性が田舎者意識の強い日本人を魅了するので
しょうか。
情けないほど田舎者だなあ。
さて、
わたしがどうしてラカンなんかを持ち出したかと
いいますと村上春樹という小説家がいますね、
──また村上春樹か。おまえどこまで村上をスト
ーカーしたいのだ。どんな恨みがあるのだ、もう、
許してやれよ、いい加減うんざりだ、という方に
はたいへん申し訳ないのですが
ラカンは柄谷行人から「詐欺師」と一蹴されたら
しいのですが(まさか、ウソだと思いますが)
こちらのほうは蓮實重彦から「結婚詐欺みたいだ」
といわれた小説家です。わたしは村上というのは
読者との相対関係がラカンと似ていると思うので
す。
あの如何にも思わせぶりなだけで中味も何もないス
カスカの小説がどうしてこうも人気があるのか?
ノーベル賞候補とまでいわれるのか。
わたしには理解できないのですが─。ひょっとする
とラカンの表現のような「現代詩」性をもっている
のかも知れない。
あ、そういえばわたしが通っていた文学学校の講演
で荒川洋治が村上春樹を絶賛して「どうして詩人に
ならなかったのでしょうね」と涙まで流して滔々と
ハルキ愛を語っていたことを思い出しました。
現代詩もなめられたものです。
で、たぶんジャック・ラカンを振り回すような人が
村上ファンにも多いのじゃないかと。
内田樹というおフランスの哲学思想だぁい好きな自
称思想家さんもラカン的現代詩表現がだぁい好きな
方でして、当然村上春樹だぁい好きな方です。
(つづく)








散文(批評随筆小説等) ヤカンによるラカンのハルキ Copyright 室町 礼 2025-04-29 07:00:36
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