此処であり、何処かでもある
ホロウ・シカエルボク
剥落していく昨日と、壊死気味の今日のボーダーライン、何もかもがぼろぼろで鬱血した世界だから、本当に美しいものが眩しいほど輝いて見える、俺ぐらいそのことを理解している人間はそんなには居ない、確かめたことがあるわけじゃないけれど…寝床は死蝋化した誰かが眠っていたかのように冷たくじめついていた、だけどだからといって、もちろんこれが一番の問題なのだろうことは自分でもわかっているのだけど、太陽が恋しいかといえばそれほどでもなかった、否が応でも日向に居なけりゃならない時間が週に二十四時間もあれば誰だってそんな気持ちにもなるだろう、やろうと思っていたことは全部後回しで午後まで寝たり起きたりしてしまった、急に夏に向けてギアを入れた季節に身体はまだ順応していなかった、でもそういう誤差ももう数日の辛抱だろう、きちんとメンテナンスをしていれば、人間の身体は嘆くほど急激に衰えることはない、何もしないやつほど年齢や故障を言い訳にする、俺は腕のいい整備士というわけではないけれど、少しずつよりよい状態を手に入れ始めている、甲状腺を壊していた二十代に比べれば今の方がずっと快調ってもんだ、午後になってようやくワードと向かい合う程度には目が覚めた、昔に比べると随分落ち着いて書くようになった、ほんの十年くらい前までは、一気に書ききらなければ価値は無いと思っていた、でもいまは、大事にするべきことはそんなことではないというくらいには冷静に書くようになっている、狂気は殊更に振り回すもんじゃない、どこかに数行滑り込ませるだけでいい、どのみちこんなものに手を染めた時点で、狂っていることは確かなのだ、大事なのは感情やその場の勢いの記録などではない、それをどんな風に書いたところで受け取る側にしてみればただの文字列だ、だから俺は感情に込めていたものを一行一行に込めることにした、密度、ずっしりと重みを感じる字面を作り出したい、すべてが同じ速度と感覚で書き連ねられた文の連続、鉛のように眼球に食い込んでくるものを書きたいと―その重みを感じることによって、俺はかつてない充足感を手に入れることが出来た、手応え、というやつだ、俺は勢いにかまけ過ぎて他のことが見えなくなっていたのだ、もちろんいままで書いてきたものも満足感が無かったわけじゃない、でもそれはもっと簡単なものだった、一時間踊ってすっきりした、なんていうのと同じ種類の解放感だ、もちろんそうしたスタイルでこそ描き出せるものもあるだろう、でも俺はいつからかそれでは満足出来なくなった、そんな気分とは裏腹に肉体は躊躇なく次を書こうと逸る、そう、もう次は違うものを書かなければ、スタイルを売りにするだけのものになっちまう…試行錯誤を繰り返すうちに朧げにわかるようになってきた、掴み始めるとあとは早かった、水門が一気に開かれて水が溢れ出るように俺はひとつコマを進めた、それは昔自分の本流だと信じていた激しい濁流ではなかった、とても静かで深い、穏やかな流れだった、そしてその静けさのせいで、そこに漂っているもの、沈殿しているもののすべてを見つめることが出来た、俺はその流れの水面でも水底でも無い場所に居て、最後の感情が刑場化して転がっているような景色を眺め続けた、その形状がなにを示しているのかはまるでわからなかったけれど、見つめているととても悲しくなったり腹立たしくなったりした、もう記憶の中には残れない様々な種類の出来事たちは、そうして身体の中で静かに拾われるのを待っているのだ、こいつらを言葉にするのは変だ、と俺は思った、それはかつてはそういうものだったかもしれない、でもいまは言葉に出来るようなものではないし、仮にそれらしい言葉を当てはめてみてもきっとしっくりは来ないだろう、だから俺はその形状が語るイメージを受け止め、幾種類ものイメージをかけ合わせることでその本質に近付こうとした、その内に気付いたのだ、これこそが文章というものが存在する理由なのではないかと―語れるものを語り尽くすのではなく、語れないものの為に言葉を費やすこと、それは例えば朧げになった過去でもいいし、自分の中でずっと燻っている得体の知れない衝動でもいい、衝動、衝動は確かに在る、でもそれは誰かにとっては暴力になり、違う誰かにとっては詩情ということになる、明らかにこちらのウィークポイントを狙って一撃を入れようとしているような意志が好きだった、それは小さなころからさ、ただ知識として受け止める、吐き出す以上の衝動を持った意志が好きだった、そしてそんなものたちから受け取ったものは、いつまでも俺の中で生き続けていた、それをどんな風に扱えばいいのかまるでわからず、自家中毒のようになった日々も何度かあった、ありきたりなお題目や行儀作法は俺には必要無い、見てくれを整えなくてもいつでもファイトすることが出来る、歳を取ったからって年寄みたいに振舞ったりしない、目的を見失わない船は、苔やフジツボが寄生するほど立ち止まりはしないのさ。