ゴッホが描いた競艇場
室町 礼

あのころは
沸騰してました。
ごちゃごちゃでした。

初めて競艇場なるものに行ったのは1997年の
初夏でした。
ギャンブルはしないのですがバイクで遠征に
出かけるといつも住之江競艇場のそばを通る
のです。高い鉄板の塀で覆われている大きな
建物からモーターボートの音ばかりが聞こえ
てきて中は見えない。そのたたずまいがいか
にも怪しくて一度入ってみたいと思っていま
した。ちなみに、
この競艇場は「世界は一家、人類みな兄弟、
お父さんお母さんを大切にしよう」というテ
レビCMで有名な日本のフィクサー笹川良一
が肝いりで建てたもので、元大阪市長の松井
繁の父親が笹川の運転手をしていたことはよ
く知られています。

競艇場は昼間からギャンブルに興じるような
連中が集まるところですからかなり物騒なと
ころであることを覚悟していましたが入場券
を買って中に入ってみると、
なんといったらいいのかそこはまるで炊きた
てのお粥のようなところでした。
ドームのような中央ホールの天井からは発走
とオッズ、レース結果などの電光掲示板がづ
らっと吊り下げられているのは如何にも近代
的なのですが壁際にはうどん、串カツ、寿司、
おにぎり、ラーメン、焼きそば、おでん、カ
レーライス、お好み焼き、たこ焼き、イカ焼
き、縁起物、タバコ、写真、帽子、メガネ、
駄菓子などの屋台や売店、食堂が並び、そこ
で働く元気なおばさんたちの地鳴りのような
ざわめきと、おばちゃん、じっちゃん、黒メ
ガネ、浮浪者、予想屋、ケバい金髪の姐ちゃ
んたちが歩き、毒づき、怒鳴りあい、うわー
ーーと笑いさざめき、大きなお椀のような中
央ホールの大気がなにか埃のような薄黒いも
やに霞んでいる。
売店や食堂、屋台の看板や商標はどれも今に
も朽ちて落ちそうなほど煤や油にまみれ黒ず
み、外れたり傾いたり。ネオンや裸電球やラ
イトに照らされてゴッホが描く廃れた下町の
一文菓子屋の店内のようにごてごてしている。
(ゴッホが描いたとしたらの話です)
ああ、これはと思ったものでした。平穏な日
常とはまったく別世界でした。
少しコーフンしてきょろきょろしていると観
覧席のある二階から痩せた小男が小走りで降
りてきてわたしに突き当たった。よけようと
したがどうやらわざと当たったらしい。
黙って行き過ぎようとすると、
「兄ちゃん、それはあかんで」という。
みると漫才師のようななんともいえない愛嬌
のある顔立ちのブ男が右手をひらいて前に突
き出していた。
「あんた、わての予想みてもうたやんけ」
開いた右手にはマジックで「2レース。二連
単。1-2/5-6/4-5」と書いてある。
後で知ったのだが「あたり屋」というデタラ
メの予想屋だった。
手のひらに予想を書いて握り、だれかに当た
って「手が開いた、予想見たんやから予想代
払え」という、まず滅多におめにかからない
絶滅系のゆすりたかりの予想屋だった。
わたしのような初心者を狙ってくるらしいの
だが、その当時は警備とか警察を呼ぼうにも
そういう雰囲気ではなく、仕方なく
「なんぼやねん」と尋ねると
「安いで、三百円や」という。
予想料は一律、一レース一予想につき百円と
決まっているらしい。何百何千という客を持
っていれば百円でもかなりの稼ぎになるのか
どうか。ゆすり屋であっても仲間内のこのル
ールは守らなければならないのかもしれない。
半分しょうがなく半分面白がって三百円をや
ると「兄ちゃん、初めてか」と笑う。
ええか、ひとつのレースに各コースがあるん
や。1から6まで成績優秀な選手から順番に
コースに入る。せやから1-2に賭けたら安
全安心やけど配当が少ない。でも一応、おさ
えで買うとく。そんで5-6やけど、5コー
スが去年まで賞金王やった峰竜太」
「峰竜太?」
「アッコにおまかせのあいつちゃうで、佐賀
出身の同姓同名や。ほんで6コースが松井繁」
「松井繁てのは、あの──維新の」
「松井繁やない。競艇選手てのはおかしな名
前のやつが結構多い。でもこいつもA級や」
なんかわくわくしてスタンドに行き、とにか
くレースを観てみたが、バイクに夢中にな
っているわたしにはあまり面白く思えなかっ
た。体重の乗せ方で艇を回転させる技術は似
ていたがバイク操作より遥かに単純のように
みえた。あたり屋の予想通り買ってみた舟券
も当たらなかった。それでもホールの雑踏と
爆発的な活力のざわめきはいつまでもいても
飽きが来ることがなかった。
奥の売店がやや静かなので回転テーブルに腰
を下ろして「肉玉」というやつを皿にもって
もらって食った。つくねの串のようなやつで
皿から立ち上る湯気はしばらく収まる様子も
なかった。

二度目に住之江競艇場へ行ったのは次の年の
12月だった。わたしは競艇場の改装工事が
あったことを知らなかった。
ディリー6面に小さく記事が出ていたらしい。
【大阪】
スタンド改修工事を進めていた住之江競艇場
が二十九日、リニューアルし、若者や女性で
も気楽に観戦できるお洒落なアミューズメン
ト・ゾーンに生まれ変わる。
そんなことも知らずわたしは
一歩場内に踏み込んだ途端、ぞっとしてその
場にへたりこんでしまった。
どこにもひっかかりのないすべすべの石鹸箱
のように、つるつるぴかぴかのホールがあり、
あの懐かしい喧騒やざわめきは消えていた。
売店も屋台も消え、瀟洒な食堂がひっそりと
ドアを締めて並んでいる。歩く人までもがな
にかデパートの客のように静かに歩いており
わたしは一変した場内の有り様にしばらく呆
然と突っ立っていました。あの、ゴッホの名
画のような油絵の光景はどこへ行ったのか? 
炊きたてのおかゆのような
熱気は? 笑っていた人、泣いていた人は?
非日常の異界は?
これじゃまるで──。
その後、二度と競艇場に行くことはありませ
んでした。





散文(批評随筆小説等)  ゴッホが描いた競艇場 Copyright 室町 礼 2025-04-23 10:17:46
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