ホーム・カミング
ホロウ・シカエルボク
タマムシの羽みたいな色の朝焼けが始まって、一晩中歩き続けた俺は高速の高架の下で眠ろうとしている、寒さがどうだとか暑さがどうだとか、虫に食われるかもしれないとかもうそんなことどうでもいいくらい眠くて、人気の無いここなら数時間くらい一切の邪魔も入らずに眠ることが出来るだろう、バイパスが出来るまではこのあたりの唯一の道だったが、今となってはもの好きぐらいしか通らないようなところだ、それ以前にこのあたりの人口は減り続けていて、タフなバイクに乗ってオフロード手前の旧道を通ろうなんて考えるような血気盛んな年代の人間は数えるほどしか居ない、俺はあっという間に眠りに落ちた、夢を見るのが容易い時代ではないけれど、カウント3を待つことも無く俺はそれを手に入れたのだ、とはいえ、そこに至るまでに一晩の不眠を潜り抜けているわけだから、もしかしたらそれは早過ぎるのではなくて遅過ぎるのかもしれない、でも一日の眠りの定義など誰に決めることも出来ない、近頃はいろいろなことが多様性という言葉で片付けられるみたいだし―二時間は眠っただろうか、夢の中で何か大事なことを思い出した気がして反射的に目を覚ました、折角思い出した出来事は捕まえる前にまた手を擦り抜けてどこかへ行ってしまった、遥か昔のことなのは間違いなかった、次に思い出すのはいつになるんだろう、あまり記憶の水面に浮上してこない事柄であることは間違いなかった、それだけは確かだった、でももうもしかしたら死の直前まで思い出すことはないかもしれない、そう思うと残念な気がした、もう眠る気にはならなかった、思い出せないならそれでいい、それは脳味噌の中にないだけだ、身体のどこかでその記憶はビタミン剤のように全身にその感触を循環させているだろう、血管を引っ張り出してどこかで切断すれば血液と一緒に細かいディティールも吹き出すかもしれない、って、それじゃ結局死の直前じゃないか、俺は一晩かけて歩いてきた道を逆に辿り始める、時々まるで違うルートを選んで家に帰りつくときもあるけれど、今日はそのまま逆に辿ろうと思った、特別口にするような理由も無い、しいて言うなら気分に従うのが一番いいと思ったってことくらい、生命力を色濃くした植物の匂いがした、車の通りはまだ少なく、空気は澄んでいた、街中にだってそういう時間はあるのだ、一晩中とは言わないが、あまり自分が経験したことの無い時間の中を歩いてみるべきだ、そういう経験をすると、自然に目を凝らしたり耳を澄ましたりすることが出来るようになる、眠れなかった記憶を帳消しにするみたいに俺はこれまでの道を逆に歩き始める、そこに意味はあるのかって?そんなことどうでもいい、大事なのは家に帰ることさ、家か、と俺は歩きながら考える、短い時間とはいえ、熟睡したせいか頭は冴えている、後でとんでもないダメージが来るかもしれないが、とりあえず今は冴えている、家、不思議なものだ、どこかに住んでいたみたいでもあるし、どこにも住んだことが無いようにも思える、いままでいくつか住処を変えた、ほとんどの部屋のことはもう忘れかけている、映像としては残っているけれど、まるでテレビか映画で見た映像のように現実感を欠いている、そんなところに自分が住んでいたなんて嘘みたいだ、だけど誰しも帰る家は必要だ、今はウクレレを弾いているパンク・シンガーだってそう歌っていたことがある、ホーム・ボーイ、エブリバディ・ニーズ・ザ・ホーム、アタックの強い曲だ、単純に胸が躍る、そんな簡単な曲で良いこともあるし、複雑に絡み合ったプログレッシブなものが欲しい時もある、嗜好はひとつじゃない、本来型にはめられないものを型にはめることでそれを現実だと言う人間が居る、そんなことは馬鹿げている、自分の欲しいところにだけフォーカスを定めて騒いでいる、くだらないよ、相手にする価値はない、家に帰る、果たしてそれは俺の帰るべき場所なのだろうか、俺は本当は家など求めていないのではないだろうか、いや、浮浪者になりたいわけじゃない、ただ、その時々の住処を家と呼ぶにはあまりにも情報が足りな過ぎる、賃貸物件というのはビジネスホテルの部屋よりは自由だが、生まれ育った場所ほどには安心させてはくれない、それが安普請だろうが高設備なマンションの一室だろうが同じことだ、それは生活の為に便宜的に与えられたスペースに過ぎない、初めから定住が約束されていない、もちろん、条件次第で同じ場所に住み続けることは可能かもしれない、それでもきっと、この印象は揺らぐことはないだろう、といって実家に住めるなら住んでみれば、その思いは消えるのかと言えばきっとそうではないだろう、それはあまりにも受動的に過ぎるのだ、自分の意思が無くても成り立つもの、とでも言えばいいのか、家か、と俺は口に出して呟いてみる、夜通し歩きとおした頭で考えて納得のいく答えを導き出せるような問題ではなかった、そう、もしかしたら、こんなくだらないことを考えながら歩いているこの道の上が、まかり間違えば俺の家として成り立ってしまうかもしれないのだ。