ある寒い春の日
ホロウ・シカエルボク


長ったらしい名前の紅茶の缶が窓のそばで錆びてた、それがいつからそこに在ったものなのかなんてまるで思い出せなかった、ほとんど何も知らないままで過ごしていたのだ、自分が欲しい明日のことばかり考えて―今夜、地球は冷たかった、ずっと昔からそうしてぼくの身体を冷やし続けているような気がした、いつだって気がするだけだ、ほとんど何も知らないままで過ごしていた、彼女が幸せを演出しながら胸の中に何をしまっていたのか、とか、紅茶の缶は時の経過を赤子のように抱いて僕を断罪していた、気付くことが無意味だと思えるくらいそれは過去の中だった、そして僕はそのほとんどを何もしないまま忘れようとしていたのだ、デジタル時計が示す時計には何かしらの意味があった、確か僕はその日誰かと約束をしていたのだ、僕は短いメールでその約束を断った、ごめんよ、体調が芳しくなくて、約束は持ち越しにしてくれないかな、返事は、わかった、お大事に、だった、そりゃそうだ、僕だってそう言う、さて、僕は紅茶の缶を手に取って食卓の椅子に座った、缶を目の前に置いて、黙って見つめた、今日だけはそういう、後悔の真似事みたいなことをしてみてもいいだろう、どうせ人生は自己満足の連続だ、大事なのはその制度を上げていけるのかどうか、口先だけでなんとかしようなんてしないこと、確かな意味をそこに見つけること、それから、どれだけ時間がかかってもある程度納得出来る結論を見つけること、結論が出たからとてそこでお終いにしないこと、結論はいつでも変えられると認識しておくこと―そういう工程を理解しておけばどんなことだって少しはマシになる、僕は自分の人生の中でならそれをある程度上手く実行することが出来た、でもどうしてだろう、彼女とのことに関してはそれはまるで上手くいかなかった、単純に答えを出すとすれば、彼女が僕ではなく、僕は彼女ではないということなのだろう、だけどそんなところで終わらせるのは、近頃のヒットチャートに並ぶラブソングくらい下らない、時間は作った、おそらくは心のどこかで避け続けていたこの問題を、今日きちんと終わらせるべきだと思った、原因の一つは簡単に思い浮かべることが出来る、僕は人づきあいが恐ろしく下手なのだ、でも彼女となら少しマシに出来ると思った、だから彼女をこの家に招き入れた、それは思ったよりも上手くいかなかった、それはきっと僕のせいなのだろうけれど、僕らは常にバランスボールに腰かけているみたいにグラグラしていた、でもそのうち落ち着くところが見つかるだろう、時間が沢山過ぎて行けば、二人で過ごすやりかたというものが自然に出来上がって来るだろう、僕はそう思っていた、自分でもどうしてなのかよくわからないのだけれど、僕の中でその問題はそのまま片付いてしまった、いまこうして思い返せば、彼女は僕のそうした無関心―あえてそう表現するけれど―のような態度を何度も潜り抜けてこようとしていた、僕はにっこりと笑いながら心のどこかで、そんなに頑張らなくてもいいのにな、なんて考えていた、そういう気持ちって多分伝わるのだ、彼女は磨り減っていきながら、それを見せまいという努力を怠らなかった、だから愚かな僕はこれでいいのだとずっと考えていたのだ、それは何か月も続いた、おそらく僕がもっとやり方を考えていれば、そんなに続くことはなかったのだろう、けれど、もしもう一度同じ流れがあったとしても、結局のところ僕はそんな風にしか動くことが出来ないだろう、持って生まれた性分というのはどうしようもないものだ、ある冬の夜、彼女は夕食のあとで静かに破裂した、お茶を飲んでふうとひとつ息をついて、突然で申し訳ないけれどもう出て行くわ、と言って、すでにまとめてあった荷物を持ってそれ以上何を言うことも無く静かに出て行った、僕はあまりに突然過ぎて何を言うことも出来ず、事の顛末をただただ眺めていた、そして時間が経つにつれてあまりにもあっさりとそれを受け入れてしまった、怒りも悲しみも苦しみもなかった、僕はどこか壊れているのかもしれない、その時初めてそう思った、でもすぐに忘れてしまった、その故障を直したところで、もう何の役に立つこともないのだ―不意にドアベルが鳴った、その鳴らし方には懐かしい癖があった、でもそれをどこで聞いたのか思い出すことが出来なかった、でもドアを開けなければいけない気がして、僕はドアを開けた、ドアの外に立っていたのは彼女だった、「上がってもいいかしら」と、君は作法的な微笑を浮かべながらそう言った、「もちろん」と僕は答えて彼女が通れるように少し身体を寄せた、彼女は手ぶらで、寒くないのだろうかと思うほど薄着だった、食卓へ真直ぐ歩いて、僕がさっき座っていた椅子の向かい側に座った、僕もさっきまで座っていた椅子に戻った、「賭けをしたの」彼女は紅茶の缶を手に取って、懐かしく、愛おしそうに見つめながらそう言った、「あなたがこれに気付くことが出来たら一度訪ねてみようって」僕はなんと言っていいかわからず、ただ頷いた、「一日目よ」「―何が?」「私がこれをあそこに置いたのは」僕はきっと驚いた顔をしていたのだろう、彼女は吹き出した、「ねえ、とりあえず私、今日から戻って来てもいいかしら?」もちろん、と僕は言った、彼女はにっこりと笑って、じゃあ荷物まとめて来るわね、と言って出て行った、僕は紅茶の缶を手に取り、初めて見るもののように見つめた、おそらくはこれまでの続きになるだろう、でもそれはきっと、どこかこれまでとは違ったものになるのだろう、という気がした、確かなことなんて何もないけれど、どうせ人生は自己満足なのだ、持って生まれた性分というのはどうしようもないけれど、でも、少し注意深く誰かを見つめることくらいなら僕にだって出来る筈だ。



自由詩 ある寒い春の日 Copyright ホロウ・シカエルボク 2025-03-31 22:32:21
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