抜けの良さをぬけぬけと語る「抜け」と「ピアノリサイタル」
鏡文志

「抜け」



女は強気の人が好きと言うかが必ずしもそうでない気がする。
女は抜けのいい男が好きなのではないか? そう思う節がある。

凹凸の関係で言うと、凹は凸に対し、穴を開ける存在であって欲しいわけだ。
変に考え深かったり、弱気だったりためらいがちだと困るのだ。
つまりヒトラーであり、ビートルズであり、それはどんな存在であろうとも、抜けがいい存在であることを男性に対し女性は求む。
とすればだ、抜けの良さだけを歓迎する社会は考えものではないか? と考える引き算の法則も成り立つではないか? 人間は考えたり迷ったりする。その中から価値について問い、内容良きものを生み出す。
とすれば女であり、女に値するもの、つまり大衆が欲しがるものは、成果ではないか? 良質を作るための準備期間としての沈思黙考を女が認めるか? 違う。早くしてよであり、早くだしてよである。種を欲しがり、実を欲しがる。それが女であり大衆だ。

私は違う。沈思黙考たる紳士として、悩ましきものには価値ある物を生み出す準備期間であり、それを必要とする間が必要なのだと考える。

ジョンレノンは、創作などカスの積み重ねであると語ったが、幾数多ある天才達が世に傑作を生み出すまでの間、どれだけの失敗と駄作を積み重ねてきたか? それも分からずに人々は天才だろうと凡人だろうと、非凡なのだから出来るでしょうと、アドリブで面白きことの披露などを求める。

ドリフがどれだけいかりや氏の元、加藤、志村らとともに、本で言う推敲編集にあたるであろう、会議を重ね、毎週傑作コントの数々を世に送り出してきたか? ダウンタウンの松本は天才だが、突出した天才の存在よりも、集団による内容の質吟味によるチームプレイを私は好む。ドリフの笑いには、ダウンタウンにはない安定感があった。

松尾芭蕉の時代には、合作としての詩があったと思う。
私がコンテストを好むのも、コンテストは採用されるまでの間、プロの審査員による目が入る。気になる時はメールが来て、こう直したほうがいいかと思いますがなどと言う指摘まで頂ける。これは裸の状態で文章が世に出ずに、価値における吟味が発表前にきちんとなされると言うことなのです。

その意味も分からず、自分の発信する言葉が誰の質吟味も編集もなく世に出ることを気持ち良きと感じてしまうのが無責任たる大衆である。

俺はいつだって本当なら欲張りかも知れないが言葉に責任を持ちたい人間として、編集は欲しい。
編集欲しくないと言う人は、俺は文化に携わる人間として信用出来ない。

素人が信用出来ない理由をプロが挙げれば、能力如何にかかわらず、その文章誰か通過した上で届けてんのかい、があると思う。決して優生学の観点からのみ、内容に対する信用を素人に対しプロが述べるわけではない。

僕の詩の多くは他サイトでは、イイネのひとつもつかなかったものだ。
しかし、あさひてらすの詩のてらすは朝日新聞系列だから、毎日一万人程度の目に止まるはず。毎日一万人程度の目に止まるであろうサイトの常連投稿者である僕が、一般の場では全く目立たずモテずの扱いに耐えている。

そこにあるのが、私の沈思黙考精神に対する無理解と見た。
私は常に考えている。これでいいんだろうか? それでいいんだろうか?
抜けの良さを発揮出来るのはその悩み苦しみの結集であり、塊としての作品内においてである。普段の私は特にコミュニケーション上は他者に対し、特に女に対しては、抜けの良さを発揮出来ることはそう多くない。早い話が性欲の対象だ。お前なんかやりたいだけだ! 対して喋りたくもねえ面白くもねえ相手に、と言う相手に対し、ぶっきらぼうに振る舞うことも出来ず、おどおど話してしまうこともしばしば。

つっけんどんな態度を取る時もあるが、その時の反応の方がまだマシだ。女は抜けの良さを当てにしたがる生き物である。

私がモテてないかどうか本当はわからない。後でみんな狙っていたと告白されたこともあった。女は何故はっきり言わないのだろう。その時はそうは思わなかったし、しかしそれでも私が福祉の世界に欲しい人がいたかと言うとそう多くはないから、それで良かったのだと思う。

詩は、ピアノリサイタルという詩を福祉の同じ利用者に見せた時
「今まで素人の人から色んな詩を見せられたことがあるけど、俺自分で目利きだと思ってるんですよ。その俺が思う。この詩直すところないですわ。完璧ですわ」
と褒められた。しかし、率先して応援したいかと尋ねると、それには賛同されず。貴方の態度が気に入らないとそう返された。

大多数の人は、プロの目利きの人ほど自分の目を信じて主体性を発揮出来ないのではないだろうか?
プロのコンテストに作品が送られてくる時、その人物が普段モテているかどうかなどと言う情報は入らない。ただ作品のみがある。それがあさひてらすの詩のてらすだった気がする。ある程度経歴を知っていたら私は、左翼メディアとも連携の深いあさひてらすの詩のてらすで詩の常連になれたかどうか? 先入観を持たれると私はダメだ。
「私はいいと思う。でも周りが……」
そんな感じのことが多かった。あさひてらすの詩のてらすには私の詩内容を買うような、偏屈な人がいるに違いない。

女性にこっそり好意を打ち明けられることがあった。あまり表沙汰にされたくないようだった。
「あの人格好いいと思わない?」
と出会ってから1年後ぐらいに噂されたこともある。最近は、利用者の人が私を頼って散歩に一緒に出かけると、あの人にはそんな人望があるんだと言う目で見られるように。狼として一匹で歩いている人間を、多くの人は認めづらいようだ。集団心理のようなものも分かり、掴み始めてきた。

女なんかこうだ。
「なんかよく分かんないけど、あんたがそれで気が済むならそれでいいよ」
やれ、穴に対し、とつの関係だ、これでも喰らえ! ピアノリサイタルの一撃!



「ピアノ・リサイタル」


(前夜)

綺麗とは、赤が良ければ赤を、白が良ければ白を。迷わず選ぶ、その瞬間の美意識の中に、あります。
白が良くても赤を、赤が良くても白を。妥協を良しとする、言い訳と開き直りの中に、ありません。

綺麗とは、光への憧れと祈願です。
闇への安息を願う、歪ではありません。

綺麗とは、激情の後の悲しさです。燃え上がる前の不穏ではありません。

(当日)

綺麗とは、威風堂々とドレスを着て座るその姿です。
壊れることを恐れる老婆心では、ありません。

綺麗とは、大胆と過激併せ持ち、見栄とハッタリを貫く、その切れ味です。
錆びたナイフが売り物にする、優しさではありません。

綺麗とは、神経質なピアノの調整のような、デリケートな素肌です。
調整の壊れたお喋りでは、ありません。

綺麗とは、外側にすべてを預け、信頼と安心に身を任せようとする、その心です。
不信と回避から、内側に籠る怯えではありません。

綺麗とは、白鍵と黒鍵が織りなす、良心の呵責と悶え、その中を駆け抜ける疾走。光と闇が織りなすハーモニー。そしてそれを現すメロディの中に、あります。
雑踏の中に紛れる自らの足音を色で誤魔化し、すべてを灰色で済ます適当には、ありません。

綺麗とは、やり切った後の余韻です。なにもする前の空白では、ありません。


散文(批評随筆小説等) 抜けの良さをぬけぬけと語る「抜け」と「ピアノリサイタル」 Copyright 鏡文志 2025-03-06 07:11:23
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