自然と、人間
鏡文志
人間は、自然の一部である。
全体は部分の連なりから、なる。
全体に答えはなく、全体に対して求める答えは、個々の出した集合体としての塊への俯瞰により、得ることが出来る。
つまり全体に答えを求めることは、協調し、妥協し、譲り合い押し合いへし合い、そうすることでしかあることの出来なかった個々のものとしての人間の観察し、記録し、計測することにより万能足らんとしようとしてきた姿を現しているとも言えるのである。
人間は自然の、一部である。
人間は自然には、敵わない。
つまり、今までしてきた話を踏まえて言えば、部分は全体に対して敵わないと言っているに等しい。
どれだけ早く走り、どれだけ賢く生き、どれだけ力強くても、能力は協調への意思には敵わない。
一人では、生きたくない。この物質として全体に対し無数の鏡を見ることを面白きと思い、愉快と感じ、それを神の視点で俯瞰することを是とすることによって、人間は人生を長く肯定し、生きることが出来るのではないだろうか?
風は俯瞰していない。雨も俯瞰していない。雷も俯瞰していない。
あれらは神のご意志により、遠慮なく吹き降り、鳴り落ちているのである。
風は全体のことを考えて、吹きどころを考えて吹いているだろうか?
雨や雷は全体のことを考えて、落ちどころを考えて落ちているだろうか?
そうでないとすればこの地球環境の恒常性をどう、説明するべきであろうか?
科学は神のご意志なく、万物の因果関係によりすべてがなることを解明し、説明しようとしてきた。
雨が降ることに、人間がおしっこをすること以上の違いを求めない。そこには質がなく、品もなく、価値の違いもない。人間的な尺度によってすべてを決めようとしてきたヒューマニズは、やがて自然界で揉まれている内に破綻し、元の木阿弥になるのがオチなのである。
広きものが全体であるなら、狭き個としての人間はどう生き、快適で豊かな生活を送ることが出来るであろうか? 狭き門を守ることによって、弱き己を肯定することによって、目先と我欲に生きている自分を認めることによって、つまり限界を知り、高きに首を垂れ、謙虚たることによって、幸せになれるのでは、ないだろうか?
このナレーション魂。広く狭く浅く深く、自由に伸縮運動を続け、決して真実に辿り着くことなく、悟りへと彼岸へと向かうことなく、楽しきを演じるインチキ臭さを守りながら、それを読み、また触れる人々にとり、良き秋刀魚とビールの味の組み合わせの如く、五臓六腑に染み入ることが出来れば本望であります。
結詞『風に弄ばれて』
どれだけ大欠伸しても、どれだけ足を伸ばしても、人間は自然より自由には、なれない
どれだけ早起きしても、どれだけ歯磨きしても、人間は自然より長生きは出来ない
どれだけ笑顔が絶えず、どれだけ幸せであろうとも、人間は自然ほど力を持つことは出来ない
どれだけ愛に溢れ、どれだけ意気揚々としても、人間は自然ほど万能でもない
いつも答えは、風任せさ 風に弄ばれている
人間が求める全ての欲求は、個々としての全体への無力さの前に、平伏すのみである
風に答えを求めても、流れ吹き抜けるのは、奔放なメロディだけである
神の奔放に弄ばれ、それを蝶々への愛としてお花畑に生きるのも、時には良い
捕まえることは容易い。泳がせ、眺めることを良しとする人生は、虚しい
その虚しきを埋めるものが芸術であるならば、芸術というこの難きもの。このロマンを、手に入れなきによって手に入れた私の人生も、悪くはないと思うのである