詩人とは珍獣である(1)
おまる

ネット詩界隈をウロつきはじめたのは、ちょうど1年前の3月だ。だからといって、何か特別な感慨があるわけでもないのだが、この1年で、つまらないものをたくさん読んできた...そう思うと、ただ、ため息が出るばかりである。

ときは2025年、かつてのオルタナティブの夢は完膚なきまでに破壊されている。旧来のメディアの影響力が至るところに圧迫し、日々impを集める面々も、めをこらせばオールドメディア出身の要人たちばかりで、すでに状況が固定化されて久しい。

そんな中で、ネット詩は、ひとり時代の流れに背を向けるように、いまだに「わたし」の特別さにすがり続けている。ふと、こんなことを想うのだが、ネット詩が雲散霧消した暁には、こいつらどうなってしまうのだろう?と。

黒髪氏は謎の死を遂げるのであろうか。ステロタイプさんは三浦果実とコラボし続けるのだろうか。借金玉の黒歴史はなかったことにされるのか。

もしそうなれば、まあ全員とは言わんが、でも一人か二人くらいは、ブレイクスルーするかもしれない。もっと活気のある場所で、ようやく才能の花を咲かせるかもしれない。よしんば「わたし」が特別なのだとして、本来、それくらいのビルディングス・ロマンがなければ、しかたがないような気がするのだが。すくなくとも、見ている側としては楽しくない。

誰だったかは忘れたが、かつての(伝説のネット詩投稿サイト)文極のユーザーだった方が「自分たちは塵芥になった」とコメントしていたのを憶えている。その痛切さには真摯なものがあった。確かに、あると信じていたものが、ある日突然、まるで最初から存在しなかったかのように消え去ってしまう。こうした地獄のような喪失を、「詩」というものは、いとも容易く召喚するのだ。

だが、さらに深刻なのは、本来ならば人の実存を揺るがし、その了見をはみださせ、不安を呼び起こしうるはずの「詩」が、表面的には、知的消費層向けのマスメディアと寸分違わぬ形式を取っていることではないだろうか。なにより問題と思われるのは、それが読み手の価値観を前提とし、観念の共有関係=共犯関係のなかで書かれているという点にある。

ビーレビュー(だけではなく、もっと広範な領域にみられる傾向かもしれない)で最も評価され、期待されるのは、既存の枠組みを逸脱し、読者の内面に切り込み、強烈な危機意識を誘うような書き手ではない。むしろ、時流を読み、読者の期待に応じた「傾向と対策」をそつなくこなす、賢い書き手であるように、わたしには見える、見えている。

そうだとしたら、例えばマスメディアで「ご機嫌キャラ」として推されている若手論客と何が違うのだろうか?...

わたしたちは、もっと嫌われる覚悟が必要なのではないか。敵を作ることを恐れず、時代に迎合せず、自らの信じる言葉を貫く存在であるべきではないのか。


散文(批評随筆小説等) 詩人とは珍獣である(1) Copyright おまる 2025-03-01 23:30:39
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