失くしたナイフ
ホロウ・シカエルボク
音も無く過ぎ去ったものたちが語らなかったものを洗いざらいぶちまけていく明け方の夢、目覚めた時ベッドのヘッドに食い込んでいたサバイバルナイフ、それは俺のお気に入りのものだったがそれが俺の手によって行われたものなのかということについてはまるで確証が無かった、昨夜のことは何ひとつ思い出せなかった、が、酒を飲んだとかおかしな薬をのんだとかいうことはまず無かった、そういうものにはまるで興味がないからだ、もちろん、眠っている間に誰かが忍び込んで俺にそうしたものを飲ませることは出来るかもしれない、念のため室内を見て回ったけれどドアや窓はきちんと施錠されていたし、誰かが部屋の中をうろつき回った残滓のようなものはまるで見つからなかった、警察を呼んでみればそこに誰かの指紋があることくらいは突き止められるかもしれないが、もしその時出てきたものが俺のものであったとしたら狂人として片付けられてしまうだろう、だから俺はしばらくの間そのままにして、思い出すことが出来るかどうか試すことにした、ナイフ、なぜ俺がそんなものを購入したのか?俺はアウトドアな趣味など無い、外に出ると言えば散歩くらいだ、本来そんなものが必要な局面などまず訪れない、理由はただひとつ、形が好みだったのと、怖ろしく切れ味が良かった、触るだけで切れてしまうので気を付けてくださいね、と購入したショップの店員も言っていた、まあ、実際何かに使用したことはないけれど、時々手に取って眺めたりした、そういう時にはあまり褒められたものではない想像だってした、今まで考えたことがなかったけれど、俺はあまり刃物を持つべきではない人間なのかもしれない、まあ、数年間部屋に置いているけれど、特別問題を起こしたことも無いから、それはそれでいいのかもしれないけれど、それにしても十年近く大事に使ってきたベッドにこんなことで傷がつくなんて複雑な気分だ、いっそのことこのままオブジェとしてナイフを刺したままにしておこうか、女の子が訪ねてきたらこの悪趣味を面白がってくれるかもしれない、まあ、女の子が訪ねて来ることなんて全然ないけどな、簡単な朝食を摂ることにした、インスタントコーヒ―と健康補助食品、別にダイエットとか食事制限とかいうわけではない、俺は夜しかまともな食事を摂らない、日があるうちにきちんと食事をすると、腹がパンパンになって息苦しくなる、消化も追いつかなくなる、だから若いうちからずっと、夜以外はまともに食べない生活を続けている、三食きちんと食わないと身体に悪いよ、なんてアドバイスを貰うこともあるが、不思議なことにそんなことを言ってくる人間は必ず俺より身体が弛んでいるし、不健康そうな目つきをしている、まあ、そんなことどうでもいいことだけどね、それにしても、こういう些細な事柄に口を挟んでくる連中を見ていると、ステレオタイプなんてみんな処分すべきじゃないのかという気がしてくるけれど、この世界を動かしているのはそういう連中なんだよな、大昔から、進んで騙されに行く、盲目になりに行くという人間が大勢居るんだよ、居るだろ、どんなものを選んでも安全パイにしか手を出さないやつ、冒険しないことを王道と呼んで、自己肯定ばかりを繰り返して無駄に歳だけ食っているような連中さ、ああ、こんなこと考えてるとなんだか腹が立ってくるな、ふと気が付くとベッドに刺さっていたはずのナイフは俺の手の中にあった、俺が引き抜いたのか?そんなことした覚えはまるで無かった、おかしいなと思ったが、とりあえずそのままベッドの傷を確認した、これは素人じゃどうしようもない、というレベルで細い縦長の綺麗な穴が空いていた、手の中のナイフを眺めた、悪戯をとぼけている猫みたいな顔をしている、武器としても道具としても絶対の信頼を約束する重みとデザイン、一度見始めるとしばらく眺めてしまう、こいつを手に入れたのは間違いじゃなかった、その度にそう思う、ナイフをしばらく眺めているといいアイデアが浮かんだ、パテみたいなものを買ってきてベッドの傷に詰め、表面を同じ色で塗ればいい、上辺の角から入っているので傷の深さは見当がつく、俺は早速着替えてホームセンターに行き、必要なものを買ってきて作業を始めた、二時間程度で終わらせることが出来た、作業自体は簡単なものなのだが、隙間無く傷を埋めるのに少し苦労した、ヘラを買っておいて良かった、色を塗ったところだけ少し浮いているが、そのうち気にならなくなるだろう、傷をそのままにしておくよりはずっといい、俺は満足してシャワーを浴びた、あとはのんびりと休日を楽しもう―夜になるまで、ナイフがどこかに行っていることにまるで気が付かなかった、最後に俺はあれをどこに置いたんだ?どれだけ考えても思い出せなかった、今夜は手に取れるところに置いて寝ようと思っていたのに、ベッドを少し移動させたりしてまで探してみたけれどまるで見つからなかった、どういうわけか今夜のうちにナイフを見つけないと駄目な気がして、夜中過ぎまで躍起になって探した、でもどこにもそれはありはしなかった、時間は午前三時に近い、睡魔ももう限界に達しようとしている、眠るのが怖い、まだナイフは見つかっていないのに…。