詩の言葉というものは時代を映し出す、そのことは谷川俊太郎の詩を見るとよくわかる。よく知られているように、谷川俊太郎の第一詩集『二十億光年の孤独』は三好達治の序文を付して刊行された。現在長期入院中で資料を確認出来ないため記憶に頼った記述になるが、「この若者はとても遠いところからやってきた」とか、そんな感じだったように思う。三好達治といえば、第一詩集『測量船』巻頭の「雪」が有名だ。あの詩にあった「太郎を眠らせ太郎の屋根に雪降りつむ/次郎を眠らせ次郎の屋根に雪降りつむ」といった詩行は、日本の伝統的な「イエ」の制度が前提になっているのは明らかだ。つまり、三好達治とは古来の伝統的な感性を持つ書き手であり、そんな彼から見ると谷川俊太郎の詩は「とても遠いところからやってきた」と感じられるほどに距離のあるものだったのだ。
そう思って見ると、詩集『二十億光年の孤独』にある感性は現代的だ。表題作「二十億光年の孤独」にある「火星に仲間をほしがったりする」は言うまでもない。その詩にある「ネリリし キルルし ハララし」といった語彙もそうだ。さらに言うならば、宇宙空間における距離を表す「光年」という言葉は日本の伝統的な「イエ」の制度に留まっていては絶対に出て来ないものだ。
谷川俊太郎はこうして現代的感性を持って登場した。そんな彼がさらなる現代性を示したのが詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』冒頭に収められた「芝生」という詩だろう。
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ
ここにある「細胞」という言葉も三好達治的感性からは遠い。この詩にある感覚も「孤独」と呼んで差し支えないものだろう。「不意にこの芝生の上に立っていた」というのは、自らがどうしてそこにいるのかわからない戸惑いの感じがあり、これが孤独でなくて何なのだろうと思わせるものだ。
谷川俊太郎の詩を読みこんでゆくと、大抵の抒情詩人にある「私」という個のくさみのようなものがほぼ感じられない。逆説的に言うと、だからこそこの詩人が戦後詩の中でまれな詩で食って行くことが出来たのだとも言えるだろうが、その個を感じさせないたたずまいもまた、ある意味現代的だ。
後期の詩集の代表的なものに『世間知ラズ』があるが、「世間」というものは普段我々が思っている以上に日本的伝統の価値観に出自を持ったものだ。そんな「世間」を知らないのは、現代的と言えはしないだろうか。この感覚もいかにも谷川俊太郎的であるし、世間から離れて個のくさみを消して黙々と詩の世界に耽溺する詩人の孤独の姿が容易に想起される。
谷川俊太郎とは、現代的な孤独の感性を持ち、それゆえに成功し国民的詩人になりえた稀有な詩人であると言えるだろう。
(2025年2月)