幻身についての序論
森 真察人

あなたの網膜に向かってなめらかにねじれる音楽をとらえるために僕はあなたの眼をない
なんとなれば眼とは水を細分しあまりに暗く非在の青を結ぶ、その二組の泡の両端をそれぞれに直線で結ぶことは眼の仕事ではない、それは僕が顔面を確かめるための過剰につややかな鉄板によってされるものだ
まず僕の首から下の前半身についてのかの一連の過程としての曲面には単なるナルシシズムが張り付いていると言えよう
問題は僕の首から上をも含む後半身と精神そして情緒についてのそれだ
後半身は離散的に反転せしめられくだらない砂時計型の一平面を描く、さらには分析・綜合そうごうという眼をもしのいやしさでもって表示され僕は後半身について生涯その虚像を把えるほかはない
僕の精神については無論、それはもはや眼のみの仕事ではない、それは(後半身をも含む)全身体の運動およびそれにより表出せられる不定形な精神に加え若干の情緒を把える、生命による無数の曲面族の総体としてのある〝捩れ〟を描く一連のあなたの過程だ
その受容器官を仮にあなたの網膜に限定しても事情は同じでありやはりそこにも〝捩れ〟=曲面族=音楽がたしかに在る、これは波浪はろう連嶺れんれいをはじめとする身体的事物とあなたの網膜との間の曲面族とはまったく事情が異なる
しかるに鏡像とあなたの網膜にうつされた僕の精神像とは補完関係にありあなたの網膜を通すことで僕ははじめて僕の精神の美しさと情緒とを視ることができる
しかしあなたの眼を視てはならない、それはあなたの網膜を僕の網膜でもって把えようとすること、いわば途方もない〝捩れ〟の反復による円筒に溺没できぼつし、投身へと至る混沌に限りなく近づくことだからだ
鏡像と網膜上の像との周縁としての虚像には出来る限り出会わぬことだ、望ましくは〝捩れ〟をほとんど垂直に視、楽譜に起こすことだ
情緒を視ること、これは顔面に囲われた両の網膜の鏡像を視ることであり一切の事情がひときわ大きく脈打つ瞬間にほかならない
相容あいいれぬ僕の網膜の鏡像=平面系と僕の網膜にうつされた僕の網膜の像=曲面系とは非常なエネルギーを含み螺旋状らせんじょうに上昇あるいは傾斜しそれらの〝捩れ〟は少女のかたちを取る、たとえば
細心の空から無数の赤や黄のちいさな紙片とともに少女がうつぶせに倒れてくる、少女の右手が僕の右手に重なる——網膜も精神も役割を終えた、かの把えがたいあまりに連続的な=なめらかな熱が交じる時間を、かんずること


自由詩 幻身についての序論 Copyright 森 真察人 2025-02-10 17:33:36
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