鬱と新作について
鏡文志

今回は仕方ないは許すこと、と書いた詩を現代詩フォーラムの月ラスト作としてあげました。
どこかで意地を張っていても人間は自己を他人他者のために諦めなければいけない。そういう思いを詩に託しました。家庭内裁判を起こすといきり立っていた時期もありましたが、それに対し賛成票がない場合、諦める必要がある。個人が公でなく自分個人のためにたった一人で闘うと言う時にジョーカー的なテロリズムをとってしまいがちです。それに私は決して反対はしないけれど、どこかで自分がそれをやるのは嫌だ。それは親に感謝する気持ちだってあるのだと思う。
私には教養があった。私にはユーモアがあった。それを授けて下すったのは親でもある。
臭い飯でも食わせて貰うだけで感謝する必要がある。アーメンジーザス。それを奴隷の選択と思う人もいる知れませんが、ジョーカーよりはマシだ。アメリカンインディアンも反抗する仲間がいない状況に追い込まれれば、奴隷を選ぶ。それはネットを見ても思う。あれが大変これが大変というけれど、自分達で徒党を組んで不正と闘うという書き込みはついぞ見たことがない。

「私たちは貴方を保護している。守っている」
嘘ばかりの話を最もらしげに巧みに使い洗脳しようとする福祉業界、医療業界。それでも嘘だということに賛成がなければ鵜呑みにするしかない。それは彼らの思う壺でもあるが、仕方ない。

「仕方ない仕方ない」
と諦観と諦めを日本人に広めたお笑いタレントと言えば、タモリさんが挙げられる。
70年代に嫌われタレントナンバーワンとして登場し、その後お茶の間の顔となるとイメージ変革。
いいともにて毎日サラリーマンの如く、鋭利さを捨てフレンドリーシップを繰り広げる姿がお笑いに夢を見る、たけし派の鋭利型お笑い好きからは反発を喰らった時期もあったとか、

業界人が語っていた話にあるのだが、業界のタレント。例えばSMAPのような人達にたけしタモリでどちらが好きかという話で、たけしさんの言葉は筋が通っていて真っ当なため、少し怖いそうだ。真っ当で筋が通っている人の話は本質を言い当ててしまうため、業界の闇に触れる話に切り込むことさえある。コロナの件で
「大したことなくないか? 自殺者が増えていることの方が問題では?」
と真っ先にテレビ局内で言っていたタレントが彼だったことを思えば、さもありなん。
立川談志師匠はたけしを自らの後継者として期待していたそうだが、タモリにはほとんど言及しなかったという。
私は言葉というものに筋を通し真っ当を突き詰めていくと、鬱にたどり着くと思う。
批評に次ぐ批評が言葉の世界には溢れている。思考者はこうじゃないか? と語る。しかしもう一方ではこうでもないと非判別の観点が出てくる。アイデアの宝庫だ。この世界を生きることは大変苦しい。それで僕は入院が必要かどうかはさておき、鬱になった。

適当だよ、話の内容にそこまでこだわりなんかないよーとタモリイズムを通せると楽かも知れない。
それに福祉の世界では僕の考えるアイデアは実現しないことが山ほどある。現代は完全にたけし型からタモリ型に世の中がシフトしてしまった。このことに気づくと絶望すらある。小林よしのりは完全にたけし型だ。秋本治先生は完全にタモリ型。本当は昔は秋本先生はたけしが大好きで、現代的なものに対しロックな過激を見せていた時代もあったのだ。

今日こちらで載せる一作は、タモリ的な言葉遊びと、鬱的な気分をミックスさせた一作です。



ボクは、はしっ子

ボクは、はしっ子
良くて、隅っ子
いつも、かけっ子
時々覗きっ子
友は皆、真ん中子
定時キチッと
我にビシッと
時にカチン、と
ボクは、風の子
冬は、雪の子
とろり、ふわっと
何故か、モヤっと
する時、ちょっと
頭ぼやっと
まるでロボット


現代詩フォーラム 最新作「仕方ない節」「ドジな人(LOVE ME TENDER意訳)」

https://www.breview.org/keijiban/?id=14297


散文(批評随筆小説等) 鬱と新作について Copyright 鏡文志 2025-02-09 05:59:18
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