frantic
ホロウ・シカエルボク
朦朧とした午後には腐乱死体の夢を見て、俺の指先はとめどない記憶の中で踊る、安物の名前ばかりの遮光カーテンで隠された住処、寒波の中で吹き荒ぶ風に煽られて軋んでいる、プロコフィエフの旋律を訳もなく思い出す瞬間、幾つかのイメージが頭蓋の内側で孵化する音が聞こえる、それは文字にしてみるとふつ、ふつ、ふつというような感じで、極細の糸が切れる時の音によく似ている、もしかしたら人が死ぬときに聞こえる音もそんな音なのかもしれない、じっとして耳を澄ましているとそんな考えが頭に滑り込んでくる、人間の限界とはどこにあるのか、それは肉体のなのか、それとも精神のものなのか?それはきっと精神の方が先なのだろうと思う、精神の死が、肉体の死を呼び込むのだ、目的があるものは死なない、それがすべての答えではないのか(すべてというのは言い過ぎかもしれない)?室内とは思えないほど衣服を着こんで、ディスプレイの前で意識を飛ばしている、普段は鳴りを潜めている俺に肉体構造を貸してまたひとつ詩が生まれようとしている、自覚がなければ書くことは出来ないが、無自覚をすっかり忘れてしまうとそれはただの良く出来た文章の羅列になってしまう、それは肉体と精神のバランスに似ている、その比率は時々で変化する、当然のことだ、早々に燃え尽きる気は無い、まあ、それも今となっては叶わないことだけど、人生のスケールの分だけ詩は作ることが出来る、だから生き続けなければ書けないものが必ずある、俺はそれを自分で手に入れて試し続けたいのだ、これには設計図が無い、世紀すら跨いで受け継がれているものにも関わらずだ、それはいまでも衝動に任されているということだ、とはいえまったく自由なものではない、こうだと言葉に出来るほどのものではないにしろ、ある程度こういうやりかたで作るべきだというのは必ずどこかで生まれてくる、それまでの時間は地ならしのようなものだ、これから自分が行おうとしていることの基礎固めなのだ、俺の場合はもうはっきりとは覚えていないが、これだと思えるものを掴むまでに十年近くは費やしたような気がする、そして、ある程度満足出来るものを仕上げるにはそこからさらに十年ほどかかった、それからあとは要らないこだわりをなくしてみたりしながらここまでやって来た、正直自分の中でこれだけ明確に変わったというようなものは無い、俺がそれに向かう理由はいつだってひとつだけだったから、そして今はじっとして夕暮れを待つ世界の中に居る、肉体が解放される時、精神が解放される時、そんな時は人生の中でそんなには多くない、普通に生きていればそうだろう、でも求め続けていれば、何度もそんな感覚を味わうことは出来る、表現の根源にあるのは快楽だと思う、やるべきことをやり尽くした後に生み出される快楽の味、それが幾人もを虜にしてきたのだ、自分の指先から今出て行くべきものが次々とディスプレイの中に弾き出されていくとき、まるで内臓を引き摺り出されているような感覚になる、その、少し血が冷えるような感覚が忘れられないのだ、どんなもっともらしいことを言う気も無い、俺はそんな快楽が欲しくて今夜も狂ったようにキーボードを叩き続ける、面白いものを作ろうとか、文章として優れたものを作ろうとか、そんな気持ちはさらさら無い、ただ思うがままに次々に投げ出して、段々と身体が空っぽになって行く感覚に恍惚とするだけさ、それは、書く側に限った話じゃないと思う、読む側にしたってきっとそうさ、文字列に閉じ込められたその奇妙な興奮を上手く汲み取ることが出来た瞬間、文字列の流れを理解することが出来た瞬間、脳内にはこの快楽に似たものが現れる、血流の勢いが増し、理性的な幻覚が次々に展開される、ドラッグのようなものだ、しかも、これには副作用なんてものはないんだ、依存性はあるかもしれないけれどね、人生を駄目にするかもしれないくらいの依存性は確かにあるかもしれないね、でもそんなもの、長く付き合っていけば上手く扱えるようにはなって来る、大事なのは根気強く、目的を見失わずに、様々なやり方を見つけていくことさ、これはセオリーじゃない、どれだけ上手く解放を行えるのかという話なんだ、俺は長く生きられると思う、そして、ずっと同じペースで書き続けるだろうと思う、もっともっといろんな書き方を身に着けていくと思う、そうすることでもっといろんな開き方を覚えていくだろう、別に使命感とかそういうことじゃない、俺は蜜の味を知ってしまった、そしてその得も言われぬ風味はますます深く濃くなって行く、どこまで美味くなるんだろう、最高に美味いものを味わうにはあとどれくらい続ければいいんだろう?俺は果てしなくこれに捕らわれている、俺は最も理性的な狂人としてこれを追い続けるだろう、その瞬間の俺の目つきを君にも見せてあげることが出来るといいな、あれこれと語るよりはずっとわかり易いはずなんだ。