〈鵯のいつも獨りや冬の雨　涙次〉


【ⅰ】

　立春も近い。
　今回は、ちと氣が早いがヴァレンタインデイに纏はるお話。

　方南町のマンション- じろさんと澄江さんが住んでゐる- に、久々足を向けた悦美。澄江さんは花を活けてゐる手を休めて、「あらあんた、來てたの」「父母がだう云ふ暮らしぶりをしてるか見るのは、娘として当然の義務です」悦美は紅茶を勝手に淹れて、「レモンある？　お母さん」「冷藏庫みて頂戴」靜かであつた。
　ふと、澄江さんが云ふ。「さう云へば、こないだユウちやんが來たわよ」「えー、聞いてないわ」「あんたには云ふな、とユウちやんの言傳てがあつて。氣を使はせ過ぎよ。たまには連絡してあげてね」
　ユウちやん、と云ふのは、髙任ﾀｶﾄｳユウジの事。悦美の幼馴染馴染みで、此井家にもしばしば出入りする程の仲だつた。
　髙任は悦美よりほんの二つ齡上、職業は俳優である。アラサー美女となつた悦美が眩し過ぎて、またカンテラにインフェリオリティ・コンプレックスを抱いてゐる彼は、悦美の現在に干渉しないやう、身を退いてゐる-
　さう、彼は悦美に惚れてゐるのだ。
「今度連絡してみるわ」「さうしてあげてね。優しいコなんだから、傷つけるやうな事、しちや駄目よ」「傷つけるつてだう云ふ話よ。わたしは普通に接してゐるだけです」こんな會話から覗けるやうに、悦美はカンテラの戀敵などゝはもつての他で、彼の事は一人の男として見てゐなかつた。澄江さんにはそれが不憫なのである。


【ⅱ】

　髙任には、ロック・シンガーとしての顔もあつた。いつだつたか、彼のライヴをカンテラと観に行つた。カンテラは相變はらずその場では異彩を發してゐて、髙任は歌を歌ひづらさうだつたが、例により悦美は頓着しない。
　樂屋に顔をだした。髙任は笑顔を無理に作つて、二人の應對に当たつた。カンテラは彼のエレキ・ギターに、イヴ・タンギ―の画の模冩がプリントしてあつたのを、殊更氣に入つたやうだつた。
「さうだ、ユウちやんにねだつて、あのギターを譲つて貰はうかしら。カンテラさんへのヴァレンタインのプレゼントにいゝかも」そんな事をすれば、髙任の劣等感を募らせるばかりなのだが、一向に氣に留める事の無い、よく云へば天真爛漫な悦美- 男心と云ふものを、全く理解しない、イノセントな彼女。要するに「罪な女」なのである。
　だが悦美は、杵塚の運轉するビッグ・スクーター、スズキ・ジェンマ250（最近送迎役が多い杵塚に、社用バイクとして、カンテラが買ひ與へたのだ）の後ろに乘つて、髙任の待つ、澁谷のと或るバアへ向かつた。所謂藝能人御用達しの店である。

　單刀直入に悦美、ギターの話題を持ち出した。サングラスにマスク、と云ふなりの髙任は、少々面食らつたが、まあ了承はしてくれた。
「あ、ユウジさんが悦美さんと！」藝能雀がケータイのカメラで彼らを捉へた。悦美は人目に立ち過ぎる。周囲のざわめきにも、馬耳東風だつた。「今度、方南町に届けとくよ」髙任は言葉尠なだつた。悦美に本心を云ひたい。しかし、それは出來なかつた。【魔】退治の英雄・カンテラにぞつこんな悦美。俺があげた物を、よりにもよつてカンテラへのプレゼントにするとは！　彼は神を呪つた。


【ⅲ】

「え！　僕が對談？」マネージャーの木嶋美奈美ｷｼﾞﾏ･ﾐﾅﾐの申し出に、谷澤景六、ことテオは戸惑つた。「さうです。お相手はテレビ・プロデューサーの林和規ﾊﾔｼ･ｶｽﾞｷ氏。先生原作のドラマ、だうしても制作したくて、かき口説ひてみたいつて」「筆談になるけど、いゝのかなあ」「結構ですよ。林さんにはもうその旨、傳へてあります」
　それにつけても、前代未聞、猫と人間の對談！　何となくテオは緊張に脊筋が寒くなつた。が、結局はその仕事、承諾したのである。

　インスタグラムに、髙任と悦美の２ショットは、やはり上がつてゐた。カンテラ一途と思はれた悦美が、有名俳優と浮名を流す-　俗世間の好餌である。だが、こゝに、物事に頓着しないもう一人、がゐて、それは云ふ迄もなく、カンテラである。
　まあ彼の場合、頭の大部分を占めてゐるのは、【魔】を斬る事であつて、男女の関係がだうであらうと、知つたこつちやないのだ。【魔】退治のロマン、それと人の心を持たぬアンドロイドである事も相まつて、悦美のゴシップの一つや二つは、だうにでも看過出來た。
悦「もうすぐヴァレンタインねえ、何が慾しい？」カン「チョコレエトでいゝよ。氣持ちが籠もつてゐるなら、何でも悦美さんのお氣の濟むやうにしてくれ」悦「大黑屋さんで、上等なシャンパン、買つてこなきやあね」

　ところで悦美との密会の当夜、杵塚が悦美を迎へに來た後、初めて髙任は街の女を買つた。自暴自棄氣味だつた。その夜の事は、これからお話しやう。