曇天の重量
山人
曇天の上側には太陽があることなんて信じられない。私は朝五時から午後一時までの勤務を終え、こうしてぼんやりと外の曇天を眺めている。曇天には重量があると思っていて、このやるせなさと、なんとはなしの失意感はどこかで誰かによって製造されたものではあるまいかと思ってしまう。
独白すると、昨日、私は山に行っていた。『「そこに山があるから」というセリフがあったから行ったのです』、という事は正しくもある。思えば昨日も曇天ではあったが、少しだけ明るい色合いではあった。失意の中にほんのわずかな朱色の輝きのようなイメージ。そのわずかな期待みたいなものを眉間に押し込んで歩き出したのだ。
「ひたひたひたと足を進める教」があるならば、その信者でもあったわけだが、誰も居ない山岳の雪山に身を置くことが一種の義務であるように、私はそこに居たのだ。目指すは頂きでなくても良かったし、何も目指さなくても良かった。ただ私は一つの、一個の、「ひたひたと足を進める教」の信者なのです、と言いたかった。
ときおり私は何かについて独り言などを言っていたと思う。そしてその独り言を雪達は黙って聞き耳を立てていたし、そこにある種の親睦が生まれていたのである。
此処に居るのは去年のままの大木たち。そこに鮮烈な色合い(ヤドリギの黄色い実と橙色の実)が私の眼前に有ったことが酷く切ないくらいうれしかった。