夜に裂ける
ホロウ・シカエルボク
寝床に沈み込んで壊死した夢が肉体に浸透して悪い気分になる、細胞の拒否反応、対応策の無い流行風邪みたいなさむけと身体の痛み、何も起こってはいないのに酷く摩耗している、油の切れた機械になってしまったかのよう、夜にはまれに水面下で動いているものたちが浮上してくることがある、日頃見ないようにしている、気付かないようにしている、あるいは本当に気付けないようなものたち、今夜はそんな夜だったということさ、部屋にあるだけのブランケットでも温まることは出来ない、凍えているのは肉体ではないのだ、凝固するということ、澱んだ血のように、流れを阻害するもの、そしてそれは、自分以外のどこにも原因は無く、ただただ震えながら恨み言を吐くしかない、窓の外から誰かがこちらを覗いているような気がする、そんな気がするだけだ、カーテンは隙間なく閉じられている、にも関わらず、明らかにそうだと確信してしまうほどの気配、それは誰が作り出している、それは誰が作り出している?それはこの肉体に巣食った腐敗じみた感覚と同じところから生れてきているのか?俺は目を細め、窓の向こうに居る何かを感じようとする、それは主張の強過ぎる亡霊のように、存在感だけがあり、存在してはいない、ふざけるなよ、吐き捨てる声すらまともに出てはいない、不意にカーテンが揺れる、俺は精一杯身構えるが、それ以上のことは起こらない、そして気配は消える、諦めたのか、それとも何か他の手段を考えるのか、それとも、自分が出てくるまでもないということなのだろうか、ままならぬものが増えるほどいらだちは拗れていく、あるいはもうそれは殺意と呼んでもいいものに変わっているのかもしれない、ははっ、いったい、何を殺すというのだね、今ここで誰かにその切っ先が向けられるとしたら、十中八九この俺の喉笛ではないのか、俺は立ち上がろうと決める、全身に裂けるような痛みが走る、唇を噛み、呻きながら俺は立ち上がろうとする、痛い、でもそれだけだ、もうそれだけなら立ち上がってしまおうと決めていた、唇が切れて血が流れた、それは奇妙なほど熱かった、口の中に溜まった血を吐いて俺は叫んだ、獣のように叫びながら立ち上がった、部屋の壁に一度、頭を打ち付けた、一瞬、世界は静寂し、俺は肉体の主導権を取り戻した、動くことだ、数回、深呼吸をして、余計な力を抜いた、挑めば自分が望むように変えることも出来る、そんなことだってあるかもしれない、ハッ、まるで昔のロックソングだ、無情の世界、なんてもはや洒落にもならない時代に、でもそんな原動力はまだ生きているのだ、外に出よう、俺は服を着替え、発作的に外へ飛び出した、もう開いている店などなかった、深夜一時なのだ、飲み屋でさえ店仕舞いを始めていた、しかたが無いのでコンビニに入った、入口の近くで商品を出していた若い女の店員が、いらっしゃいませと言いながらこちらを見てえっという顔をした、なに、と俺が聞くと、えっと、と額を指さしながら、血が…と遠慮がちに言った、指で触ってみると確かにぬるっとした感触があって、指先に結構な量の血が付いた、トイレに行って待っててください、と店員は言った、俺は言われた通りにした、しばらくして売りものらしいミニタオルと消毒液とガーゼと絆創膏を持ってやってきた、ビールケースを椅子代わりに俺を座らせ、濡らしたタオルで傷口を拭いた、タオルはあっという間に血塗れになった、薄く切れてる感じなんで縫わなくても良さそうですね、と言いながらスプレータイプの消毒液を容赦なく吹き付ける、俺は呻く、手洗いにあるペーパーを取って傷口以外の水分を拭き取ると絆創膏を丁寧に貼り付けてくれた、俺は素直に礼を言った、いいえ、と女は笑って答えた、「店内を血塗れで歩かれても困りますので」「ごもっとも」俺は諸々の料金を払うと言ったが、女は断固拒否した、俺は支払いを断念した、「喧嘩ですか?」「自分とね」女は渋い表情を作った、「一回、病院に行った方がいいですよ」そんなに酷い怪我なのか、と俺は訊いた、女は右手で違う違う、というジェスチャーをして、ココロの病院、と真面目な顔で言った、えぇ、と俺は軽く異議を唱えたが、聞いてください、と女は真顔で続けた、「私の弟、精神病院で死んだんです、鉛筆で自分の頭を何回も刺して」俺は声を失った、「難しいかもしれないけど、誰かを頼ってください、絶対に今よりはマシになるはずですから」俺は呆然として、思わず頷いた、ずっと自分にとり憑いていた奇妙な興奮はすっかり消えた、良くなったらなにか買いに来てください、と女は言った、俺は間抜け面で礼を言ってコンビニを出た、二時間ほど歩いたところで絆創膏を剥ぎ取り、丸めて捨てて踏んづけた、それから夜が明けるまでどこで何をしていたのか、どうしても思い出すことが出来ない、気付いたら家のベッドで涎を垂らしながら眠っていた。