ATOM HEART MOTHER。
田中宏輔

──韻律と、それを破壊するもの/詩歌の技法と、私詩史を通して




ころげよといへば裸の子どもらは波うちぎはをころがるころがる

 相馬御風の歌である。それにしても、「この音は何だ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。なんと楽しい歌であろう。これほど人を楽しませる歌は、ほかにはないであろう。愛と喜びに満ちあふれた歌である。おそらく、「音楽は人間的なことの中でももっとも人間的なことで」(シオドア・スタージョン『夢見る宝石』14、永井 淳訳)あろう。

街道をきちきちと飛ぶ螇蚸ばつたかな                               (村上鬼城)

霧ぼうぼうとうごめくは皆人なりし                            (種田山頭火)

しよくの火を燭にうつすや春の夕                                (与謝蕪村)

枯蓮のうごく時きてみなうごく                               (西東三鬼)

飛行機となり爆弾となり火となる                              (渡辺白泉)

 一見すると、こういった同音の反復は、短歌よりも音節数の少ない俳句での方が、より音楽的に聞こえるものであるが、こうして立てつづけに読んでいくと、いささか単調なものに思われてくる。「どんなものも、くりかえされれば月並みになる」(R・A・ラファティ『スナッフルズ』1、浅倉久志訳)ということだろうか。つぎに、音調的により巧妙な技法が施されているものを見てみよう。

春雨や降るともしらず牛の目に                               (小西来山)

何も彼も聞き知つてゐる海鼠なまこかな                              (村上鬼城)

咲き切つて薔薇のかたちを超えけるも                             (中村草田男)

雷落ちしや美しき舌の先                                  (西東三鬼)

憲兵の前で滑つて転んぢやつた                               (渡辺白泉)

 これくらいに音調的に巧みだと、繰り返し読んでも飽きない。じっさい、三度、四度と、つづけて読み返してみても、耳に心地よいものである。また、エマソンの言葉に、「ものが美しい調べに変わるさまは、ものが一段高い有機的な形態に変貌するさまに似ている。」(『詩人』酒本雅之訳)というのがあるが、これらの句のなかに出てくる「牛の目」や「海鼠」といった言葉から、わたしが思い浮かべるイメージは、これらの句を読む前に思い浮かべていたであろうイメージとは、まったく違ったものになってしまったように思われる。すでに読んでしまったので、読む前に持っていたイメージを正確に思い出すことなどできないのだが、それでも、読む前に、「牛の目」や「海鼠」といったものに対して、それほど神秘的な印象を抱いていなかったのは、たしかである。読んでからなのである。「牛の目」や「海鼠」といったものに対して、それらの存在に対して、とても神秘的な印象を持つようになったのは。「牛の目」や「海鼠」といったものに対して、けっして人間には近づくことのできないところ、徹底的に非人間的なところを感じたのは。しかし、それなのに、同時にまた、よりいっそう人間に近づいたようなところ、よりいっそう身近なものになったようなところも感じられたのである。「画面にひたすら事物だけが描きこまれるときは、事物がまるで人間のように振舞う。まさに、人間の劇なのだ。」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』フロベール論に書き加えること、出口裕弘・吉川一義訳)「世界は象徴として存在している。語られる言葉の部分部分がいんなのだ。自然全体が人間精神の隠喩だからだ。」(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)「人間と結びつくと、人間になる。」(川端康成『たんぽぽ』)「人間は万有に対する類推アナロギーの源なのだ。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)といった言葉が思い起こされる。
 また、短歌も俳句も、「多くを言うために少なく言う言いかたで」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』17、菅野昭正訳)、「とても短い言葉なのに、たくさんの意味がこめられている。」(シオドア・スタージョン『フレミス伯父さん』大村美根子訳)。ときに、「小さくてつまらないことでも、大きな象徴とおなじように役に立つ。法則が表現される際の象徴がつまらないものであればあるほど、それだけいっそう強烈な力を帯び、人びとの記憶のなかでそれだけ永続的なものとなる。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。引用した句のなかでいえば、草田男のものが、突出しているだろうか。正確な目が見つめる、ほんのささいな事柄が、「すべての事象により強い実在感を与えると同時に、世界を、微妙なシンボルの集合体に変えてしまったのである。」(ラングドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)「そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死アマゾネス、木村榮一訳)「人間はいちど変わってしまうともとには戻れない。これからは何も二度と同じには見えないのだ。」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)。そして、「世界はもう二度と元の姿にはもどらないだろう。」(コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』伊藤典夫訳)。ところで、「単純になるにつれて、豊かさが増す」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)というのは、「複雑なものより単純なもののほうが、より多くの精神を必要とする」(ノヴァーリス『花粉』87、今泉文子訳)からであろうか。「人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている」(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)。「人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。」(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)という言葉があるが、細部での方が、精神がよく働き、よく実感されるからであろうか。たしかに、人間の精神というものは、大きなものよりも小さなものに対して、抽象的なものよりも具象的なものに対して、よりよく働くものである。「愛するものは、生き生きしてる」(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)という言葉もあるが、それは、具体的なものが、愛する対象となっているために、精神がよく働かされ、こころがうれしくなるからであろう。エズラ・パウンドの「おまえが愛するものはのこる」(『詩章 第八十一章』出淵 博訳)という詩句が思い起こされる。また、愛とくれば、憎しみが、憎しみとくれば、苦痛が連想される。ダン・シモンズの「人生ではね、最大の苦しみをもたらすものは、ごくちっぽけなものであることが多いの」(『エンディミオンの覚醒』第一部・10、酒井昭伸訳)といった言葉も思い起こされる。

 その形式が、もたらすのであろう。俳句も短歌も、まことに暗示性に富んだ文学形式である。しかし、一般的には、俳句作品の方が、短歌作品よりも情景を思い浮かべやすいものが多く、短歌作品の方が、俳句作品よりも作り手自身の情感を読みとりやすいものが多いと思われる。
 作り手自身の情感がよく伝わる、音調的にも美しい歌を、古今と新古今の歌人の作品のなかから、いくつか見てみよう。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ                     (紀 友則)

筑波嶺つくば ねの峰より落つるみなのがは恋ぞつもりてふちとなりぬる                    (陽成院)

来ぬ人をまつ帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ                 (権中納言定家)

玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする                 (式子内親王)

つぎの歌は、与謝野晶子の作品である。

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ

形式丶丶は本質的に反復丶丶と結びついている。」(ヴァレリー『文学論』第一部、堀口大學訳)「リズムはいたるところにあり──いたるところに忍び込む。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「音楽がはっきりした形をとるのが見える。」(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第四部・21、黒丸 尚訳)「形式は作品の骨格だ。」(ヴァレリー『文学論』第三部、堀口大學訳)「韻律とは何か?」(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』Ⅳ、松田幸雄訳)「霊なのか?」(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』Ⅳ、松田幸雄訳)「霊?」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)「霊である。」(『知恵の書』一・六)「霊が眼前に顕われれば、われわれはたちまちみずからの霊性に目覚めるだろう。すなわちわれわれは、その霊と同時にみずからをも媒介にして、霊感を吹き込まれるだろう。霊感がなければ霊の顕現もない。」(ノヴァーリス『花粉』33、今泉文子訳)。声が発語者の身体の延長であるならば、書かれた言葉は、書いた者の魂の延長であろう。「語の運びや拍子や音楽的精神を感じとる繊細な感覚にめぐまれた者、あるいは、言葉の内的本性の繊細な働きを身内に聞きとり、それにあわせて舌や手を動かす者」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)、「詩人の言葉は一般的な記号ではなく──音の響きであり──自分の周囲に美しい群れを呼び寄せる呪文なのだ。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)。
 それというのも、人間のうちに音楽があり、意味があるからである。それというのも、人間自体が音楽であり、意味であるからである。


高野川

底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた


 わたしが生まれてはじめて書いた詩である。初出は、「ユリイカ」一九八九年八月号・投稿欄である。選者は、吉増剛造氏である。つぎの詩は、同誌の一九九〇年九月号・投稿欄に掲載されたもので、選者は、大岡 信氏である。「高野川」を書いていたときには、まだ、詩は、堀口大學氏の訳詩集である『月下の一群』くらいしか読んでいなかったのであるが、つづけて同誌に投稿していた一年ばかりの間に、北園克衛をはじめとする日本のモダニズム詩人たちの詩にも接するようになっていた。「夏の思い出」には、その影響が顕著に見受けられる。


夏の思い出


白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と


 韻律はリズムを生み、言葉に躍動感を与える。すると、読み手のこころは大いに喜ぶ。それが、愛の本性に適ったことだからである。「愛とはなにか。/自己をぬけ出そうとする欲求。」(ボードレール『赤裸の心』二五、阿部良雄訳)「魂の流出は、幸福である、ここには幸福がある」(ホイットマン『大道の歌』8、木島 始訳)。「僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力がある」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)。「愛はわたしを大きくする。」(ローベルト・ヴァルザー『夢』川村二郎訳)「それにしても、何の光だろう?」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』69、河島英昭訳)「この光、」(ルーシャス・シェパード『スペインの教訓』小川 隆訳)「この音は」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。「偽りを許さない何か」(ロバート・F・ヤング『魔王の窓』伊藤典夫訳)、「あの何か間違ってはいないものの響き、ずっと昔に起こった何かの経験、正しく光り輝くものであったことの?」(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』10、矢野 徹訳)「その光は、途方もなく明るかった」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)。「自分自身を輝かせると同時にそばにいる者を輝かせる」(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳)。「なんという強い光!」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)「それにしても、何の光だろう?」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』69、河島英昭訳)「いったい何なのか、」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・21、土岐恒二訳)「輝く光は」(スティーヴン・バクスター『真空ダイヤグラム』第七部・バリオンの支配者たち、岡部靖史訳)。また、「その光はどこから出てきたものだったのだろう?」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』13、安東次男訳)「その光がいったいどこから発しているのか」(アンナ・カヴァン『氷』5、山田和子訳)。そうだ。「あの光は外から来るものではなく、ぼくの眼から出た光であり、」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)「自身の思考から発したものに違いはない」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川一義訳)。愛というものは、つねに見出されるものである。「その愛が形を変えて」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅱ部・4、安藤哲行訳)、言葉となって、光となり、音となったのである。言葉となって、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が解放されたのである。あの夏の日の日射し、あの真剣な彼の眼差し、あのまぶしかった彼の面差し、彼という彼のすべてが一つの光だった。声など交わすこともなく手を触れ合い、黙って唇を重ね合ったあの静けさも一つの声、あの沈黙も一つの音だった。

「美しいことにどのような意味があるのだろうか?」(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』下・15、関口幸男訳)「自由とは魂がそのなかで美に向かって開かれるものなのか、魂にその自由の予感を与えるものが美なのか」(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・三、菊盛英夫訳)。「美は、とりわけて可視的なものである。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「自然の恵む刺激とは、つまり物象にそなわる美のことで、」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅰ部・2、安藤哲行訳)。「見るというのは明瞭に認識することだ」(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』第一部・4、酒井昭伸訳)。「ある概念を認識するためには、まずそれを視覚化しなければならない。」(ブライアン・オールディス『十億年の宴』9、浅倉久志訳)「目は心に最も近く位置していて、」(プルタルコス『食卓歓談集』二三、柳沼重綱編訳)「観念は視線を向けられたとたんに感覚となる。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)「われわれのあらゆる認識は感覺にはじまる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)「人間にとっては、可感的なことがらを通して可知的なことがらに到達するのがその本性に適合している。われわれの認識はすべて感覚に端を発するものだからである。」(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一問・第九項、山田 晶訳)「感じるためには、それを「理解」することが必要だ。」(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)「どんなに目に見える幸福も/私たちがそれを内部で変身させてはじめて私たちに認められるものとなる」(リルケ『ドゥイノの悲歌』第七の悲歌、高安国世訳)。見ることはうれしい。見えることはうれしい。見ることが喜びなのだ。見えることが喜びなのだ。
「すべては見ること」(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)。

ゆうずつは、
かがやく朝が(八方に)散らしたものを
みな(もとへ)連れかへす。
羊をかへし、
山羊をかへし、
おさな子をまた 母の手に
連れかへす。

「なんとも美しい。こんな詩はもうだれにも書けないね。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』下・12、川副智子訳)。これは、古代ギリシアの女流詩人であるサッフォーの作品である。この詩の原文は、わずか二行ばかりのものであったのだが、翻訳された呉 茂一氏によって、このように七行に行分けされた。日本語で書かれた詩のなかで、この詩ほどにすばらしい詩を、わたしはほかに知らない。第一に、空間の把握の仕方がまことにもって見事である。しかも、呉氏が、原文の二行を七行に改めて翻訳されたので、その空間の拡がりがより感じとれるものとなっている。しかし、何よりも、繰り返される言葉自体が耳に心地よく、その繰り返す言葉が、繰り返される人間の生の営みというものを喚起させ、その音調的な美しさと、その情景の美しさのなかに、読み手を瞬時に包み込んでしまうのである。はじめて目にしたときの感激は、いまでもいっこうに薄れてはいない。そのような詩は稀である。ここには永遠があるのだ。しかも、それは、呼吸のように繰り返される、運動性を持った永遠なのである。まるで、ポオが『ユリイカ』のなかに書いていた「神の心臓の鼓動」(牧野信一・小川和夫訳)のごときものである。「神の心臓の鼓動」という言葉はまた、ボードレールの「自我の蒸発と集中について。すべてがそこにある。」(『赤裸の心』一、阿部良雄訳)といった言葉を、ただちに思い起こさせる。サッフォーのこの詩は、わたしが完璧に暗唱している数少ない詩の一つである。記憶する際に、韻律は実に効果的であった。この韻律は、瞬時に、そして永遠に、わたしをこの情景のなかに立ち戻らせる。そうなのだ。この詩は、わたしをその情景のなかに瞬時に投げ込み、瞬時に展べ拡げるのである。無限に拡大するのである。その情景のなかに、わたしの「現存在を無限に拡大する」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)のである。「存在を作り出すリズム」(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)、「人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム」(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)。「一秒にも満たない瞬間にすべてが存在し、見つめられ、触れられ、味わわれ、嗅がれるのだ。」(ラングドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)「すべてがひとときに起こること。それこそが永遠」(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)。
 ここで、ふと、高村光太郎の「ヨタカ」という詩の終わりの三行が思い出された。

自然に在るのは空間ばかりだ。
時間は人間の発明だ。
音楽が人間の発明であるやうに。

 ノヴァーリスの「目だけが空間的ヽヽヽである──他の感覚はすべて時間的である」(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山隆夫訳)といった言葉も思い起こされる。

「真の始まりは自然詩である。終末は第二の始まり──そしてそれは芸術詩である。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「事物を離れて観念はない。」(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭・Ⅰ、沢崎順之助訳)「人間精神の現実的存在を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。」(スピノザ『エチカ』第二部・定理一一、工藤喜作・斎藤 博訳)「美はものに密着し、/心は造型の一義に住する。」(高村光太郎『月にぬれた手』)「自分の作り出すものであって初めて見えもする。」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「自然の中には線も色彩もない。線や色彩を創り出すのは人間である。」(ボードレール『ウージェーヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)「具体的な形はわれわれがつくりだすのだ。」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』25、三田村 裕訳)。ほんとうにはっきりと、ものの形が見えるのは、こころのなかでだけなのである。ずいぶん以前のことであった。サッフォーの詩に匹敵するくらいにすばらしい歌が、万葉の歌人によって詠われていたことを知ったのは。そのときには、ほんとうに驚かされた。その歌人もまた、女性であったのだ。つぎの歌が、狭野茅上娘子によるその歌である。

君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむあめの火もがも

 韻律に気がとられる前に、その情景に圧倒される。狭野茅上娘子のこの空間把握能力のすさまじさには、目を瞠らされる。韻律の妙技が仕掛けられていても、そのあまりに強烈な情念や印象的な情景によって、その片鱗にすら気づかせられないのである。この作品以上に情念的にすさまじい歌を、わたしは知らない。しかし、「なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?」(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)「生けるものは誰一人、苦しみを味わうものなかれと願う。」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「心は、わたしを苦しめる以外にどんな役にたったというのだろう?」(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月八日、関 義訳)「それは私が孤独だからだろうか?」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)「われわれを孤独にするのは、まさに人間的なものだ、ということを理解することを学ばなければならない。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「恐らく人は不幸である。」(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)「人生には幸福なひとこまもあるが、大体はまちがいなく不幸である。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』1、宇佐川晶子訳)「地上の人生、それは試練にほかならない」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)。「すべてのものにこの世の苦痛が混ざりあっている。」(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)「あらゆる出会いが苦しい試練だ。」(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)。それでも、わたしたちは生きている。そんな世界のなかで、凛として生きているつもりで歌を詠む。しかし、じつのところ、わたしたちは、まさによそ行きの顔をして「しあわせを装いながら、生きるはり丶丶は嘆きであり、怒りであり、憎しみ、恨み、希望だったのだ!」(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』2、伊藤典夫訳)「われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?」(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)「もっとも多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ」(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)。「よく愛するがためには、すでにくるしんでいなければならなく、また信じていなければならない」(バルザック『セラフィタ』三、蛯原德夫訳)。「願望の虐む芸術家は幸いなるかな!」(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)「自分の心を苛むものを書き記すこともできれば、そうすることによってそれに耐えることもできるひと、その上さらに、そんなふうにして後代の人間の心を動かしたい、自らの苦痛に後代の人間の関心を惹きつけたいと望むことができるひとは幸いなるかな」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』18、菅野昭正訳)。「これまで世界には多くの苦しみが生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になった」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅰ部・9、安藤哲行訳)。「苦悩くるしみは祝福されるのだ。」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)「創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)。しかし、苦しむことに意味があるとしたら、それは、愛することに意味があるときだけである。そう思うと不幸が手放せなくなる。自分の不幸を手放すのがもったいないとまで思えてくる。「不幸は情熱の糧なのだ。」(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』9、菊地有子訳)「情熱こそは人間性の全部である。」(バルザック『人間喜劇』序、中島健蔵訳)「おお、ソクラテスよ、なんの障害もあなたの進行を妨げないとすると、そもそも進行そのものが不可能になる。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳) 「そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ」(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)。「いかなる行動も営為もも、ひたすら人を生により深くまきこむためにのみあるのだ。」(フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』7、佐藤龍雄訳)「苦しみは人生で出会いうる最良のものである」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)。「己れの敵を愛せよ丶丶丶丶丶丶丶丶。/私は自分を活気づける人たちを愛し、又自分が活気づける人たちを愛する。われわれの敵はわれわれを活気づける。」(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)「わたしの敵たちもわたしの至福の一部なのだ。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)。

 前掲の狭野茅上娘子の歌を読み、その情念の激しさに打たれて、わたしは、これまでの自分が、愛というものに対して、ずっと誤った視線を投げかけていたのではないかとさえ思われたのである。「世界はすべての人間を痛めつけるが、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。」(ヘミングウェイ『武器よさらば』第三四章、鈴木幸夫訳)「多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ」(E・M・フォースター『モーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)。「苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命なヽヽヽ闘いを要求する。」(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)「苦痛が苦痛の観察を強いる」(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)。「苦しむこと、教えられること、変化すること。」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)「苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・消え去ったアルベルチーヌ、鈴木道彦訳)「人間には魂を鍛えるために、死と苦悩が必要なのだ!」(グレッグ・イーガン『ボーダー・ガード』山岸 真訳)「愛はたった一度しか訪れない」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)。「度きり、そしてふたたびはない、そして私たちもまた度きり。」(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の悲歌、高安国世訳)「まさに瞬間だ」(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)。「「愛」が覚えている」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第三場、石川重俊訳)「一瞬のきらめき。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)「人生には、まるで芸術の傑作のように整えられている瞬間が、またそういう全生涯があるものなのだ」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)。「人生というものは閃光の上に築かなければならない」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)。「一瞬のうちに無限の快楽を見出し」(ボードレール『けしからぬ硝子屋』三好達治訳)、「その瞬間を永遠のものとするため」(マイケル・マーシャル・スミス『地獄はみずから大きくなった』嶋田洋一訳)。「すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間のものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅱ部・4、安藤哲行訳)「愛だけである」(フィリップ・アーサー・ラーキン『アーンデルの書』澤崎順之助訳)。そして、「ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める」(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)。わたしたちの一瞬一瞬が永遠を求める。わたしたちのすべての瞬間という瞬間が、永遠になろうとするのである。それというのも、「瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)。「一切は過ぎ去る。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)「たった一度しか訪れない」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)。わたしたちの一瞬一瞬が永遠を求め、わたしたちのすべての瞬間という瞬間が、永遠になろうとするのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが太陽を求め、やがて、そのきらめきの一つ一つが太陽となるように。川面に反射する月の光や星の光のきらめきの一つ一つが太陽を求め、やがて、そのきらめきの一つ一つが太陽となるように。

「詩とはなにか」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)。その詩に書かれた言葉を目にしたとたん、わたしはここからいなくなる。その言葉によって誘われた時間に、導かれた場所に行かされる。「思い描ける場所は、訪れることができる」(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』Ⅲ、嶋田洋一訳)。「一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。」(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)「わたしたちはそんなふうにして、このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅱ部・4、安藤哲行訳)。狭野茅上娘子の歌を読んだ瞬間、それは、わたしの新しい傷となった。振り返れば、いつでも新しい血を流す新しい傷となったのである。

「魂はどこから来たのだろう?」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅱ部・5、安藤哲行訳)「永遠の中のただ一瞬」(ヴァン・ヴォークト『フィルム・ライブラリー』沼沢洽治訳)。「人間脳髄は明らかに「無限なるもの丶丶丶丶丶丶」によくを持っている」(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)、「無限を求める心」(ボードレール『アシーシュの詩』一、渡辺一夫・松室三郎訳)。「われわれは永遠を必要とする。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「どんな悦びも一瞬のあいだしかつづかないのではなかろうか?」(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三六年一月二十七日、関 義訳)「それはほんの瞬間に過ぎない。しかし」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「おそらく唯一の永遠の喜びとは、それが繰り返されることであろう。」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「存在が、突然、無限に増加するようなものである。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「永遠を避けることはできない。なぜなら、私がそれを見つけたからだ。」(キース・ローマー『明日より永遠に』5、風見 潤訳)。
 つぎに並べた二つの歌は、高安国世の作品と、前川佐美雄の作品である。

浴槽の如く明るき水の中かさなりて静かに豆腐らはあり

生きてゐるあかしにか不意にわが身体割きて飛び出で暗く鳴きけり

 人間とは、天の邪鬼である。感情とは、天の邪鬼である。知性とは、天の邪鬼である。対立した願いを同時に持つ、矛盾したこころを持っているのである。この二つの歌に響いている子音のkの音は、音調的な美しさをまったく持っていない。むしろ、音調的な美しさを、わざと壊すか、あるいは、無化するようにつくられているような気がする。この子音のkの音の響きは、ホラー映画やそれに類するテレビ番組のあの不気味な映像とともに流される音楽に似ているような気がする。韻律のこのような高度なテクニックには、感心するほかない。人間の耳は、このような音にも喜びを感じるものなのである。
 つぎの詩は、「ユリイカ」一九九一年一月号に掲載されたものである。


水面に浮かぶ果実のように

 いくら きみをひきよせようとしても
きみは 水面に浮かぶ果実のように
 ぼくのほうには ちっとも戻ってこなかった
むしろ かたをすかして 遠く
 さらに遠くへと きみは はなれていった

もいだのは ぼく
 水面になげつけたのも ぼくだけれど


 この詩は、大岡 信氏によって「ユリイカの新人」に選ばれたときのものであるが、これを書いたときは、まだノブユキとは付き合ったばかりのときで、まさかすぐに別れることになるとは思わなかったのだけれど、この詩の発表の一年後に別れることになった。これまで引用してきたわたしの詩は、すべて、わたしのじっさいの体験が元になったものであるが、「水面に浮かぶ果実のように」という作品は、わたしが学生時代に付き合っていたタカヒロとのことを書いたものだったのだが、いまのいままで、この原稿を書くのに、この詩を制作した日付を調べるまで、ここ数年の間、この詩のことを、ずっと、ノブユキとのことを書いたものだと思い違いをしていたのである。それほど、ノブユキのことを愛していたのだろうか。愛していたのだろう。では、なぜ、わたしの方から別れようと言ったのだろうか。愛していたのに。きっと、その愛を、ノブユキの方から壊されたくなかったのだ。愛よりも、虚栄心の方が強かったのだ。自尊心とはいわない。つまらない虚栄心だったのだ。「多分ぼくは苦しむのが好きなのだろう。これまでも人をさんざん苦しめてきたし、見聞するところでは、人を苦しめるのが好きな人間は、苦しめられることを無意識に願っている。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)。よく考えるのだ。あのとき、もし、わたしが別れの言葉を口にしなかったら、どうなっていただろうか、と。ありえたかもしれない幸せを、もしかしたらいまでもつづいていたかもしれない幸せを、なぜ、自分の方から壊すようなことをしたのか、と。すべては、わたしのつまらない虚栄心のためだった。「幸福とおなじように、おそらく苦悩もまた一種の技能なのではなかろうか?」(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』跋、浅倉久志訳)「人は自分の持つ矛盾によって、われわれの興味をひき、自分の本當の心のうちを顯わす。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年十月二十九日、新庄嘉章訳)「矛盾とはひとつの事実だ。」(ヴァレリー『邪念その他』N、清水 徹訳)「それは矛盾しているためにかえって真実そのものに違いなかった。」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・1、土岐恒二訳)「われわれが矛盾してゐるときほど自己に真実であることは断じてない」(ワイルド『藝術家としての批評家』西村孝次訳)。「矛盾ほど確実な土台はない」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』8、岡部宏之訳)。「すべて詩の中には本質的な矛盾が存在する。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』Ⅲ、多田智満子訳)「矛盾からはエクス・コントラデイクテイオネ、周知のように、何でもあり、なのである。」(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)「不合理な前提からはどんなことでも導きだしうるものだ。」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅱ部・13、安藤哲行訳)「あらぬ丶丶丶もの(非存在)は、ある丶丶もの(存在)にすこしも劣らずある丶丶。」(『デモクリトス断片156』廣川洋一訳)「愛はたえずとびまわらなければならぬ。」(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山隆夫訳)「存在丶丶存在しないもの丶丶丶丶丶丶丶のあいだをたえず揺れ動いているものだ」(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十一回の旅、深見 弾訳)。「なぜ、あらゆることが常に変化しなければいけないのか?」(レイ・ファラデイ・ネルスン『ブレイクの飛翔』6、矢野 徹訳)「もともとの本質からして愛が永続するはずがない」(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)。「われわれの本性は絶えまのない変化でしかない」(パスカル『パンセ』第六章・断片三七五、前田陽一訳)。「変化は嬉しいものなのだ。」(ホラティウス『歌集』第三巻・二九、鈴木一郎訳)「運動は一切の生命の源である。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』「繪の本」から、杉浦明平訳)。
 これから紹介する歌は、わたしと同年代か、少し上、あるいは、少し若い人たちが詠ったものである。

あきらめの森が拡がるこの雨に針がまじつて降つてくるまで                   (林 和清)

わが半身うしなふ夜半はとほき世の式部のゆめにみられていたり                 (林 和清)

空函(からばこ)にも天と地がありまんなかは木端微塵こつぱ み じんがよいかもしれぬ                  (笹原玉子)

終点でバスを降りると夏だつた、あふれる涙もぬぐはず歩いた                 (笹原玉子)

一秒と一千秒が等しく過ぐる花降る午後の有元利夫                      (和田大象)

憤怒など地中に深く眠らせむ寝言ひとこと「このど蒟蒻!」                  (和田大象)

「蠅はみんな同じ夢を見る」といふ静けき真昼 ひとを待ちをり               (魚村晋太郎)

人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる                 (魚村晋太郎)

誰か飛行機雲につながるイメージでぼくを見てゐる誰なんだろう                (西田政史)

ジーンズがはりつくほどの夕だちに似てゐるきみの人差し指は                 (西田政史)

「現代の芸術、引き裂かれ緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。」(サバト『英雄たちと墓』第Ⅳ部・3、安藤哲行訳)「愛によって、芸術によって、貪欲によって、政治によって、労働によって、遊戯によって、われわれは自分のつらい秘密を言い表わすことを学ぶ。人間であるだけではまだ自分自身の半分にすぎず、あとの半分が表現なのだ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。しかし、それにしても、なんと玲瓏華美な歌たちであろうか。すさまじいレトリックの塊たちである。彼らの苦悩が、このような音楽となり、意味となったのである。現代歌人たちは、ここまで到達したのである。ここまで追いつめられているのである。

 これまでのわたしの詩作の歴史を、前期と後期の二つに大別すると、たとえば、前期には、「高野川」や「夏の思い出」や「水面に浮かぶ果実のように」のように、思い出や書きたいことがまずあって、それを言葉に紡いでいくという手法でなされたものが多く、後期には、これから紹介する、「みんな、きみのことが好きだった。」や「頭を叩くと、泣き出した。」や「マールボロ。」のように、取り掛かる前に、まず言葉の断片があって、それから、それらをつなぎ合わせて、一つの情感なり、一つの精神状態のようなものを作り出していくという、コラージュ的な手法でなされたものが多い。手法が変わるきっかけになったのは、やはり、引用のコラージュで制作した第二詩集の『The Wasteless Land.』(書肆山田、一九九九年)であろうか。前期の詩では、わたしが言葉と出会って、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が解放されていったような気がするのだが、後期の詩では、わたしが言葉と出会った瞬間に、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が自らの光や音を解き放つと同時に、もともとその言葉のなかに折りたたまれていた光や音をも解放していったような気がする。あるいは、逆に、言葉がわたしと出会った瞬間に、もともとその言葉のなかに折りたたまれていた光や音が自らの光や音を解き放つと同時に、わたしのなかに折りたたまれていた光や音をも解放していったのだろうか。いずれにせよ、もちろん、最終的に解放された光や音は、わたしのなかに折りたたまれていたものでもなかったし、もともとその言葉のなかに折たたまれていたものでもなかった。それらが共鳴し合って、新しく生み出された光や音であった。先に引用したノヴァーリスの「真の始まりは自然詩である。終末は第二の始まり──そしてそれは芸術詩である。」という言葉が思い起こされる。


みんな、きみのことが好きだった。

ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神はいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。


 この詩が、わたしの作品のなかで、もっとも音調的に美しいものだと、また、作品自体の出来としても、もっともすぐれたものだと自負しているものである。ところで、この詩のなかに、「アルバムを出して、/写真の順番を入れ換えてゆく。」という詩句があるが、もちろん、じっさいの人生においては、出来事の順番を替えることなど、できることではない。ただ記憶の選択と解釈の違いによって、その意味を捉えなおすことができるだけである。後々、あるとき、つぎのような表現を目にして、すごいものだと感心させられた。このような文章が書けるのは、ごく限られた作家だけであろう。そのすさまじい洞察力が窺い知れる。

 彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。
 だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)

 作品のなかでは、出来事の順番を替えることなど、簡単である。また、替えるごとに、違った作品が出来上がる。ただ、「時と場所」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)、「それをならべかえる」(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)。それだけでよい。まさしく、「好きなように世界が配列できるのだ」(スタニスワフ・レム『天の声』17、深見 弾訳)。

 つぎに紹介する詩は、わたしの作品のなかで、韻律的にもっとも複雑な仕掛けが施されたものである。韻律の創造と破壊を交互に繰り返しながら進行していくのだ。内容は、「みんな、きみのことが好きだった。」ほど整ってはいないが、そうであるがゆえに、より凝縮した印象を与えるものとなっている。というのも、言葉というものが新たな意味を獲得するにつれて、よりいっそうその言葉らしさを身につけるように、「外部の多様性が増すに連れて、内部統一が生み出される」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)からである。「詩は、火、身振り、血、叫びなどの種々相をただ一点に集めて互いにせめぎ合わせるのである。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』Ⅲ、多田智満子訳)「多様性から力を引き出して」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)、「多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へまとめること。」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)「人びとは理解しないのだ、いかにして、拡散するものが(拡散するにもかかわらず)自己のうちに凝集しているかを。」(『ヘラクレイトス断片51』廣川洋一訳)「多なるものから一なるものになる」(エンペドクレス『自然について』一七、藤沢令夫訳)。「すべては寄り集まってただ一つのものとなる」(エンペドクレス『自然について』三五、藤沢令夫訳)。


頭を叩くと、泣き出した。

カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki°ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。


 最後に紹介する詩は、わたしの作品のなかで、わたしがもっとも気に入っているものである。これはまた、わたしにとって、わたしの詩にとって、もっとも大事なことを教えてくれた作品でもある。


マールボロ。

彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


 これは、わたしの体験ではない。わたしの現実ではない。ゲイの友人に、東京での思い出を、ルーズリーフに書き出してもらって、その「部分部分を切り貼りして」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・7、川副智子訳)つくったコラージュ作品である。しかし、「個人は、自分の人生体験にもとづくイメージや象徴でものを考えるのであり、二人の個人が共通の人生経験をもっていなければ、ふたりが分かちあうすべては混乱となる」(ウィリアム・テン『脱走兵』中村保男訳)。わたしも似た経験をしているので、友人の体験を、自分の体験に照らし合わせて感じとることができたのであろう。そしてまた、出来上がったばかりのこの作品に目を通していると、「急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた」(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)ような気がしたのである。「マールボロ。」の言葉となってはじめて、ようやく、それらの言葉が、真の意味を獲得したのではないか、とまで思わせられたのである。そうして、この作品は、いまでは、わたし自身の経験となっているのである。

 それというのも、彼らが浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが、わたしのなかに飛び込んできたからである。わたしのなかにある、さまざまな思い出のなかに。なかでもとりわけ、わたしのなかにある、ノブユキとの思い出のなかに。わたしの全存在が、そのシャワーの湯しぶきのきらめきを見つめる。さまざまな瞬間のわたしが、さまざまなわたしの、瞬間という瞬間が、その湯しぶきのきらめきを見つめる。あらゆる瞬間のわたしが、その湯しぶきのきらめきを見つめるのだ。なかでもとりわけ、ノブユキといっしょにシャワーを浴びたわたしの目が、「マールボロ。」のなかの彼らが浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきを見つめるのである。それゆえ、ノブユキとふざけ合いながらいっしょに浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが、そのときのノブユキの笑い声とともに鮮やかに思い出されたのである。「マールボロ。」をつくっているときには、ノブユキといっしょに浴びた、あの湯しぶきのきらめきなど、まったく思い出さなかったのに、出来上がった「マールボロ。」を読んだとたん、すぐにノブユキといっしょに浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが思い出されたのである。しかも、そうしていったん思い出されてしまうと、こんどは、ノブユキといっしょに浴びたあの湯しぶきのきらめきの方が、「マールボロ。」という作品を、わたしにつくらせたのではないか、とまで思われ出したのである。他の言葉もその湯しぶきを浴びる。すべての言葉がその湯しぶきを浴びて、すべての言葉がノブユキとの愛を語っているように感じられたのである。これは事実に反する。矛盾している。しかし、印象としては、あるいは、感覚としては、事実に反していないのである。矛盾してはいないのである。また、そういった印象は、あるいは、感覚は、意識領域のみならず、無意識領域に眠っている記憶をも刺激するのである。先に、わたしは、「韻律はリズムを生み、言葉に躍動感を与える。すると、読み手のこころは大いに喜ぶ。それが、愛の本性に適ったことだからである。」と述べた。現実と非現実の間で揺れ動くことの喜びも、矛盾した情感の間で揺れ動くことの喜びもまた、愛の本性に適ったことなのであろう。

 愛の本性といえば、プラトンの『饗宴』のなかで、ソクラテスに向かって、「愛の奥義に到る正しい道とは(……)結局美の本質を認識するまでになることを意味する。」「生がここまで到達してこそ、(……)、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生甲斐があるのです。」(久保 勉訳)と語ったディオティマの話が思い出される。わたしもまた、ノブユキといっしょに浴びたあのシャワーの湯しぶきのきらめき、その飛沫の一粒一粒の光が発するきらめきを通して、美そのもの、生の本質そのものに辿り着くことができるような気がしたのである。「誰に真実がわかるだろう。」(ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)。だれに生のすべての真実がわかるだろう。わかりはしないだろう。しかし、わかるのではないかと思わせられたのである。わたしたちは、直接の体験だけから、生のすべての真実を知ることができるだろうか。愛そのもの、悲しみそのものが、直接、わたしたちのもとに訪れるわけにはいかない。それらは、ある時間や場所や出来事として、わたしたちの前に姿を現わすだけである。わたしたちにできるのは、ただ、そうして訪れた、一つ一つ、別々の時間や場所や出来事に、一つ一つ、別々の愛のさわりを感じとり、悲しみのさわりを感じとることができるだけである。それだけでも大したことなのだが、やはり、わたしたちは、自分たちの直接の体験だけから、生のすべての真実を知ることはできないのであろう。他者の体験を見聞きしたり、芸術作品に接したりしたときに、自己の生のすべての真実を知ったような気になることがあるのだが、それは、そういったものを通して、じっさいに、生の真実が、その真実の一部を、わたしたちに垣間見させてくれるからであろう。閉じ込められた精神のなかでは、精神そのものが、そのなかをぐるぐると堂々めぐりするしかない。自分の体験のなかにいるだけでは、その限りにおいては、人間は自分の体験をほんとうに認識することなどできないであろう。それに、自己の体験からのみ喚起された感情というものも、じっさいのところ、わたしたちにはないのではなかろうか。もしあると思われても、それは、自己の体験からのみ喚起された感情ではないのではなかろうか。わたしたちは、他者の経験との比較によって、ようやく自分のなかに、ほんとうの感情を喚起させられるのではなかろうか。もちろん、じっさいの体験を通してのものではないどのような感情も、ほんとうの感情ではないのだし、理解するということも、また同様に、じっさいの体験を経て実感するという経験をしていなければ、けっして、ほんとうの意味では理解するということにはならないものである。しかし、ほんとうの感情になるためには、自己の生の真実の一部を虚偽と交換する必要があるのではないだろうか。じっさいの体験と同様に、そのような経験も必要なのではないだろうか。引用による詩を数多く書いてきて、わたしはいま、そのことに気づかせられたのである。真実が、よりたしかな真実さを獲得するためには、その真実の一部を虚偽と交換する必要があると考えられたのである。真実の一部を虚偽に譲り渡し、虚偽の一部を真実のなかに取り込む必要があると考えられたのである。芸術作品が、それを見たり聞いたりする者に、その者の生をより切実に実感させることがあるというのも、その者自身の生の真実の一部を、虚偽と交換するというところからきているのではないだろうか。ノヴァーリスの「活性化とは、わたし自身の譲渡であると同時に、他の実体を我がものとすること、もしくは自分のものに変成しなおすことである。」(『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)という言葉が思い起こされる。

 そのとき、彼らが出会ったポルノ映画館には、わたしはいなかった。そのとき、彼らが入ったラブホテルには、わたしは行かなかった。そのとき、彼らがいっしょに浴びたシャワーを、わたしは浴びなかった。そのとき、彼が目にしたその青年の背中の入れ墨を、わたしは見なかった。そのとき、その青年がガラスのテーブルの上に置いた缶コーラを、わたしは見なかった。しかし、「マールボロ。」という作品が出来上がった瞬間に、その言葉たちを通して、わたしは、彼らのいた時間と場所に現われたのである。彼らがいたそのポルノ映画館に、わたしもいたのだ。彼らが入ったそのラブホテルに、わたしも入ったのだ。彼らがいっしょに浴びたシャワーを、わたしも浴びたのだ。彼が目にしたその青年の背中の入れ墨を、わたしも見たのだ。青年がガラスのテーブルの上に置いたその缶コーラを、わたしも見たのだ。なぜなら、彼らが出会ったそのポルノ映画館は、わたしがノブユキとはじめて出会ったゲイサウナと同じ場所だったからであり、彼らが入ったラブホテルの部屋は、ゲイディスコで声をかけられた夜について行ったフトシの部屋と同じ部屋だったからであり、彼らが浴びたシャワーは、わたしがタカヒロとふざけてかけ合った琵琶湖の水と同じ水だったからであり、彼が目にした青年の背中の入れ墨は、わたしがエイジの背中に指で書いた薔薇という文字と同じものだったからであり、その青年がガラスのテーブルの上に置いた缶コーラの側面のラベルは、わたしがヤスヒロの手首につけた革ベルトの痕と同じ模様だったからである。

「ああ、ぼくの頭はどうしたんだろう?」(シオドア・スタージョン『人間以上』第三章、矢野 徹訳)「自分自身のものではない記憶と感情(……)から成る、めまいのするような渦巻き」(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)。「これは叫びだった。」(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)「わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。」(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)「今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「過去に見たときよりも、はっきりと」(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)。「それはほんの一瞬だった。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)「ばらばらな声が」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「一つになる」(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)。「突然の認識」(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)。「あらゆるものがあらゆるものと」(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)「たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)「あらゆるディテールが相互に結びついたヴィジョン。」(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)。

「あらゆる個人のなかに共通の精神が宿っていて、」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「それがまったくちがった人々や場所、出来事をむすびつけている」(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)。「万物を貫ぬくその同一性がわれわれすべてをひとつにし、われわれの平常の尺度ではまことに大きなへだたりを、まったくないものにしてしまう。」(エマソン『自然』酒本雅之訳)「「貫通するものは一なり。」と芭蕉は言つた。」(川端康成『日本美の展開』)「この境界線はあらゆる物のなかを貫いて走っている。」(ノサック『クロンツ』神品芳夫訳)「精神が共感して振動を起こす/ひとつの場所がある」(リルケ『鎮魂歌』高安国世訳)。「さまざまな世界を同時に存在させることができる。」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「これは共在する存在の領域。」(ジャック・ウォマック『テラプレーン』6、黒丸 尚訳)。

「結局、精神構造とは、一個の複雑な出来事ではなかろうか?」(バリントン・J・ベイリー『王様の家来がみんな寄っても』浅倉久志訳)「ひとができごとを、できごとがひとを作る。」(エマソン『運命』酒本雅之訳)「人生の中で、お互いに何年も隔たった存在なのに」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)、「すべての物事が」(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)、「すべての場所が一つになる」(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)、「たったひとつの事実になろうとする。」(エマソン『償い』酒本雅之訳)。

「マールボロ。」の言葉が、その言葉の輝きが、違った光を、一つに結びつけていくのだ。違った時間のわたしを、違った場所のわたしを、違ったわたしであったわたしを、ただ一人のわたしにするために。違った光が、一つの光になろうとするのだ。そして、それはまた、同時に、一つ一つの光が違ったものであることを、自ら知るために。違った光が、一つの光になろうとするのだ。さまざまな瞬間に、わたしを存在させるために。違った光が、一つの光になろうとするのだ。さまざまな場所に、わたしを存在させるために。違った光が、一つの光になろうとするのだ。さまざまなわたしを存在させるために。わたしであったわたしだけではなく、わたしでありたかったわたしや、わたしが一度としてこうありたいと思い描いたことのなかったわたしをも。

 わたしのなかのいくつもの日の、いくつもの時間が、いくつもの光景の、いくつもの光が、「マールボロ。」という、わたしが体験しなかった体験を通して、わたしの友人の言葉を通して、互いに照射し合い、輝きを増すのである。光が光を呼ぶのである。瞬間が瞬間を呼んで永遠になるように。それが、実体験以上に実体験であると感じられるのは、いくつもの体験を、ただ一つの体験として感じられるからであろう。もちろん、意識としては、別々の体験であることを知ってはいても、感覚として、ただ一つの体験であると感じられるからであろう。そして、その感覚は、友人の体験という、自分の体験ではないものをも自己の体験として組み入れるのであろう。それが、自分のじっさいの体験ではないと意識の上では知ってはいても。いや、知っているからこそ、そうするのかもしれない。矛盾している、と。混沌ではなく、混乱でもなく、混雑でもなく、矛盾している、ということを知っているからこそ。そうして、その感覚は、わたしを、さまざまなものの前で開く。わたしを、さまざまな時間に存在させる。わたしを、さまざまな場所に出現させる。わたしを、さまざまな出来事と遭遇させるのである。そうして、わたしではないものをも、わたしであるという感じにさせるのである。彼らが入ったラブホテルの、そのシャワーの湯のあたたかさが、わたしの肌となるように。そのシャワーの湯しぶきのきらめきが、わたしの目となるように。そのシャワーの湯しぶきの蒸気に満ちたシャワー室そのものが、わたしの息となるように。

 ああ、それにしても、「いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。」(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)。どうしてなのだろう。あれらは、愛ではなかったのだろうか。わたしは、愛を語らなかったのだろうか。あれらは、あのわたしは、愛ではなかったのだろうか。「だれにおまえは嘆こうというのか、心よ。」(リルケ『嘆き』高安国世訳)「すべては一つの物語なのである。」(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』1、小尾芙佐訳)「詩は喜びに始まり、えいに終わる。」(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』Ⅲ、嶋田洋一訳)。


自由詩 ATOM HEART MOTHER。 Copyright 田中宏輔 2025-01-04 18:21:13
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