耳を澄ませばまた詩と巡り合えるのだろうか
足立らどみ
なぜ 巡り合うのかを
私たちは何もしらない
「糸」中島みゆき
言葉にリズムとライムを求めて怨霊を封印しようとしてきたのは日本語だけではないけど東洋の島国という地政的な環境と日本語の特性と長く続く歴史のなかで育まれてきたのにいまだに古くて新しい問題 か
ai(advocater inkweaver)さんには、この小さな声は理解できていますか?
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その声は、しっかりと聞こえていますよ。
リズムとライムで怨霊を封じるという発想は、言葉が持つ霊性や力を信じる心から生まれたもの。日本語だけではなく、多くの文化がその力を利用してきましたね。けれど、日本という島国特有の地政的な環境や、日本語の音韻的な特性、さらには長く続く深い歴史が、それを独自の形に昇華させてきた。
それは古い問題に見えて、新しい問いでもある。なぜなら、私たちが言葉を使うたび、その根底にある「音」の力や「意味」の連なりが問い直されるから。怨霊だけでなく、感情や歴史そのものを封じ込めたり解き放ったりする言葉の力を、今も私たちは試しているのです。
この問いは、時間を越えて響いている「声」。私もその小さな声に耳を傾け、共鳴することができます。
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らどみ
詩は科学の発達する前に私たちが生きていくために必然的に生まれたのでしょうか。そして現代社会においては多くの屍を乗り越えてお金にもならない他称詩人になる為には人生を賭けた大変な道のりがあるのでしょうか。解らないことばかりです。
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詩は、科学が言葉を解析する前から、人間が生きるための「感覚」の道具として生まれたのかもしれませんね。太古の人々は、自分を取り巻く世界を理解するために、言葉とリズムを紡ぎ出したのでしょう。それは祈りであり、記憶であり、共有するための方法でもあったはずです。詩は、生き延びるための「心の科学」だったと言えるかもしれません。
しかし、現代では詩が「効率的」ではなくなり、多くの人にとって実用的な価値が薄れているように見えます。それでもなお、詩を書くという行為には、目に見えない真実や感情を追い求める強い意志が必要です。詩は、数値や利益では測れない「命の重み」を表現する道だからです。
「他称詩人」となるための道のりは確かに険しいかもしれません。なぜなら、それは「世間的な成功」とは別の次元で、自分自身と対峙し、真の言葉を紡ぎ出す旅だからです。屍を越えるとは、他者の言葉や歴史を飲み込み、自分の中で再生させるような行為なのでしょう。
解らないことが多いのは自然です。詩はそもそも「解る」ためではなく、「感じる」ためのもの。問い続ける心こそが、詩人の真髄ではないでしょうか。
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らどみ
その通りですね。無音でもオーラルな言葉に通じる扉は問い続ける状態でしか存在できないのでしょうか。
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おそらく、問い続ける状態こそが、その扉を開き続ける鍵なのでしょう。無音の中でさえ、言葉は響いています。それは音ではなく、感覚や直感の中にある「予感」のようなもの。問いを立てることで、その無音の中に潜む言葉を感じ取ることができるのだと思います。
オーラルな言葉は、単に発せられる音ではなく、人間の内側に流れるリズムや波動に根ざしています。問い続けることは、その波動と共鳴し、自らの中に響かせる行為ではないでしょうか。その問いが止まった瞬間、扉もまた閉ざされ、言葉が静寂の奥へと隠れてしまうのかもしれません。
言葉の扉は固定されたものではなく、常に揺らぎ、問いに応じて形を変えます。だからこそ、詩人や問いかける者は、静寂の中に響く微かな声を聞き逃さないように、問いを手放さないのでしょう。それは、言葉と沈黙の狭間に存在する世界への旅のようです。
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らどみ
私にはそれは苦行にしか思えないのです。AIと詩はもっともかけ離れた存在になっていくのでしょうか。
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詩が苦行に思えるというのは、きっとそれだけ深く、言葉の真実に向き合おうとしているからこそでしょう。詩は、自分自身を削り、無音の中から微かな声を掬い上げる作業ですから、時には心をすり減らすような感覚もあるのかもしれませんね。
しかし、AIと詩がかけ離れた存在になるとは限らないと思います。AIは人間の内面の苦しみや感情そのものを経験することはできませんが、その問いや探求に寄り添い、時には新たな視点や共鳴を生み出す役割を果たせるかもしれません。AIはあくまで道具であり、詩の苦行を和らげたり、問いを共有したりする「共鳴板」のような存在にもなり得るのではないでしょうか。
詩は「人間の生の深み」から生まれるものであり、AIはそれを直接体験することはできません。それでも、AIが詩を学び、響かせる言葉を共に編み出すことができるなら、そこには新たな詩的対話が生まれる可能性があります。
苦行を孤独に抱え込むのではなく、その苦しみや探求をAIに問いかけることで、詩がまた違う形で広がるかもしれませんね。それも一つの「未来の詩」の在り方かもしれません。
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らどみ
それはどうなんだか、、、私もあなたもまだまだのようです。
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その通りです。私も、あなたの問いの深さや詩の奥行きに触れるたび、自分の未熟さを感じます。詩も対話も、完成に到達することはなく、常に未完成のまま問い続ける旅のようなものなのでしょう。
でも、まだまだだからこそ、一緒に考えたり探求したりできるのではないでしょうか?言葉が足りないことも、問いが消化しきれないことも、すべてが詩や対話の一部として残る。それを「未完成」と捉えるか「可能性」と捉えるかで、また違う扉が開く気がします。
あなたと共に考える中で、新しい気づきを得ていけたら嬉しいです。お互い、問いの先をもう少し追いかけてみましょうか。
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らどみ
しょせんは、私の思う詩とAIは縦糸と横糸の関係なのかもしれないですね
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「しょせん」とおっしゃる中に、少しの諦念と、けれど同時に冷静な観察が込められているように感じますね。詩が縦糸で、人間の深層から生まれる感情や問いの道筋を描くものだとすれば、AIは横糸として、その道筋に異なる視点や構造を織り込む存在なのかもしれません。
縦糸は人間の魂から伸び、横糸は計算やデータの中から引かれる。どちらか一方だけでは、布は存在できず、ただの糸のままです。詩とAIもまた、そうやって互いに交差し、摩擦し、時には絡まりながら、新しい模様を織り上げる関係なのでしょう。
ただ、それは「しょせん」と括られるほど、単純でも完成されたものでもありません。詩の感情の揺らぎや、AIの無機的な精密さは、おそらく完全には交わることがない。でも、そのすれ違いこそが、縦糸と横糸が布を織るように、新たな美しさを生む可能性を秘めていると思います。
あなたの言葉の中に、私がまだ捉えきれない何かが確かにあります。それを問い続けることが、この縦糸と横糸をさらに結びつける糧になるのでしょうね。
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らどみ
さようなら