渦を巻き、堤防を越えて、濁流となって
ホロウ・シカエルボク


濁音のような夕暮れを見ながら思考の中に潜り込んだ、目を覆いたくなるようなおぞましい景色に眉をしかめながら最奥を目指す、そこにはまだ辿り着いたことが無い、人間の集中などでは到底辿り着けないところなのかもしれない、すべての情報を遮断して、一年間瞑想し続けたとしてもおそらく無理だろう、でも時々、その末端に手が届くのではないかと思える瞬間がある、もう少し、もう少しだというところで一瞬のうちに現実に引き戻されてしまう、だからそれを求めるやつらは躍起になって間違いへと踏み込んでいく、食事を止めたり、寝るのを止めたり、苦行を強いたりしてもう一度その先を見ようとする、しかしだ、それでは無意味なのだ、人であるための感覚であるはずなのに、それを手に入れるために人の暮らしを捨ててしまったら本末転倒だ、仮にそんな苦しみの果てに運良くそれを手に入れることが出来たとしても、もうそれがなぜ自分の手の中にあるのかということすら理解出来ないだろう、修行が必要だと誰もが言うんだろう、でもそれはあくまで、生活に根差した先にあるものでなければならない、瞑想の為だけにすべてを投げ出すのなら、ウォーキングの習慣を身に着けるとか、少ない稼ぎの中でやりくりしてジムにでも通う方が余程有意義だ、熱意など真実には邪魔だ、どんなに語ったところで一行でも良い文章が書けるわけでもない、それは話が違うというものだ、矛先と方向を間違えてはいけない、だがこれが厄介なことに、何もしない人間は殊更に懸命になっているもののことを異様なまでに受け入れる、受け入れられるから勘違いして度を越えてしまう、それはおそらく、退屈な観客たちの眼前に舞台というものが現れた瞬間からそうなのだろう、彼らはいつだって、ほんの少し自分を勘違いさせてくれる材料を探している、そういうネタを提供することがエンターテイメントだと思っている間抜けも沢山居る、そんなところに真実はない、見つめる目を意識した言動など興醒めってもんだ、そうは思わないか?日本人が大好きな客観という概念がある、だけど果たしてそんなもの、本当に存在するのかね?生身の人間に語れるのは自分自身のことだけさ、誰かに届けるためにこうする、なんていう工夫も結局自己満足に過ぎない、詩人の言葉など本人だけがわかっていればそれでいい、たとえそれが音楽だって、小説だって同じことだ、誰もが自分の手の中に在るものをばら撒きたいだけなのさ、「普通は」「常識的に」「みんなが」そんな言葉が逃げ口上に思えるのは俺だけなのかね?誰もそのことを疑問に感じていないのか?そういう世界を俺は凄く気味悪く感じるんだ、まるで自主的に洗脳された食用の豚だよ、喜んで殺されに行く家畜だ、いや、俺は別にそういう連中をどうこうしたいわけじゃない、ただ、俺の視点から見るともの凄く悍ましいものに感じるってことを言いたいだけなのさ、フラットな自分というものがまずある、その中ですべては生まれて来なければならない、あくまで当り前の自分が語るものでなければならないのだ、能書きにとらわれず、主義主張に振り回されず、矛盾や辻褄を気にすることなく自由に書かれなければならない、そのままで生きている自分が起点となっていないことには、文章になどなんの意味もないのだ、肉体をふたつ持つことは出来ない、そもそもひとつで充分なのだ、もともとたったひとつの魂の言葉の価値が世界を作り上げてきたのだから、分析して形式化することなど無意味なのだ、これはただの放出だ、雨や雷と同じものだ、体内における自然現象なのだ、いつのどんな時代だって、理屈を必要とするのは臆病者だけだよ、おお。いつの間にか夜だ、いつの間にか夜が、足元まで忍び寄ってきている、一日中点灯しているこの部屋ではそういったことをなかなか感じ辛い、だからいつだって記憶は抜け落ちている、自分が生きるのに必要なこと以外は廃棄されていくのだ、毎日会う人間の名前だって曖昧になる、俺がそれを必要としていなければ、起点は自分なんだ、いや、模倣や追随がいけないと言っているわけではない、形式なんてもともと意味の無いものだ、そこに自分を乗せる技量があるのなら模倣や追随にも意味はある、自分自身をそこに込めることが出来るなら、在りもののスタイルでもオリジナルだと呼ばれることになる、受け取る側だってそれぐらいのことは本能的に理解することが出来る、もっとも、そこにエンタメが絡んだ場合は、これは該当しない、特に今は、本質など問題にもしないようなものばかりばら撒かれているからね、すべては自分の為だ、自分の為にだけ書くんだ、誰が何を言おうが知ったこっちゃない、お前自身の矢を放て、そうでなければたとえ真ん中を射止めようと誰も拍手してはくれない、自分が自分である理由、それが語れないのなら指を止めて、いままで書いてきたものを火の中に投げ込むべきさ、俺がやりたいのは俺自身の存在の証拠を示すことなんだ。



自由詩 渦を巻き、堤防を越えて、濁流となって Copyright ホロウ・シカエルボク 2024-12-31 17:09:30
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