俺は本音では自分のやることなすことについて良き編集者が欲しい
鏡文志

自由には責任が付き纏うから、責任なき不自由がいいと言った人がいる。
俺は違う。自由は欲しいんだけど、自分のやることが正しいかどうかわからないから、それを行う前に良きアドバイザーが欲しい。
求めているのはドリフスタイルだ。
「おい、加藤! 俺はこれから歌舞伎町へ逃げようと思ってるんだけど、どう思う?」
「おい、志村! 一度気に入らないアイツにきついことを言ってやろうと思うが、どうだ?」
すると、加藤や志村が素晴らしい答えや的確なアドリブを交え、新たなアイデアさえ付け加えて返答してくるというわけだ。
いかりやさんだってドリフのコント以外では相談者のいない孤独な人生を自分で選択して生きてきたのだとは思う。頼れるものは自分の拙い良識と人生経験。いかりやさんだって人間だから間違えることもある。それでもどこかでこうしたらどう思う? ということに関し良き相談者は欲しかったとは思うのだ。
今は仕事とはまるで違う日常の細かな人間関係について愚痴愚痴カウンセラーに相談している人も多い。なにか志があってそれを成し遂げたい人では決してなかろう。志がない以上求めるものが安寧でしかなく、それを得るためのアドバイザーが医者であり、大量の医薬品だとはいうのは実にしっくりくる。
私の父。私の父にも志なんかひとつもなかった。ただ安定した老後と安楽な死。それだけを目指すためにシロアリのたからない家を建てたいぐらいが人生の理想だった。それを志とは言えない。リスクを拒否して安寧のためにでっち上げた志など志と言ってはいけない。立川談志や松本人志など、志という言葉を名前の結びにつけた人々に倣って私も鏡文志とつけた。談志は談を志した、人志は人間を志したが、初めから人間だった? 私は文章文化そう言ったものを志すという点を念頭に入れ文志と。まっ、これもすでにやっている人がいたようなのだが。なんでも一人で決めなきゃいけない個人主義社会は負荷がかかりすぎて大変だ。それでも私は
「責任が嫌だから自由を放り投げたい」
とまではならない。それはやはり私が志を持った人間であるからであろう。本当は志を持っていない人の説教や言い訳など聞いても仕方ないのだ。どれだけ立派な地位にいても、志を持っているかどうかは、譲れないものがあるかどうか芯があるかどうかのパロメーターになる。赤塚先生は思っていた。
「面白いことをやってやろう」
そこに沢山の仲間と大量のフォロワーが訪れ現れた。タモリは言った。
「私はあなたの作った作品の一つです」
と。手塚先生と並ぶ偉大なフォロワーを持っている赤塚先生がやった
「とにかく夢いっぱいで楽しく面白いことをやろう」
という思いはどちらかというと手塚先生タイプの上品よりよりも、低所得世帯の人たちを作風からも勇気づけたと思う。俺なんかパソコン一台で目一杯毒気を振りかざし、エンジンいっぱいにパワフルなことを書いてやるからついてこーい! とやってるのだが、これを読んでどちらかというと恵まれない若者たちが勇気づけられると嬉しいと思ってやっています。


散文(批評随筆小説等) 俺は本音では自分のやることなすことについて良き編集者が欲しい Copyright 鏡文志 2024-12-29 13:44:12
notebook Home