THE GATES OF DELIRIUM。
田中宏輔

詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)


   *


時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


時間こそ、もっともすぐれた比喩である。



   *


さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)


 飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。

 余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。

 八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどしさは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。では、じっさいに、右の歌をローマ字にしてみると、どうか。

sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka

 やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときにはあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひらがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。 たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたしたちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石があることに、わたしたちが気がつくように。


存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


  *


 不完全であればこそ、他からヽヽヽの影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)

ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)


   *


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそな
のではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


   *


物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

 言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


   *


さるおりはどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)

純粋に人間的なもの以外に滑稽コミツクはない
(西脇順三郎『天国の夏』)

simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)

 コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)

 かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)


   *


 数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするのである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


   *


 この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  


   *


 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)

 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)


   *


私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)


 わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムといったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成していく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。というのも、


これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


 窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。

 ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、また、あらかじめそのものであったことを、さらにまた、これから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。


   *


人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)           

ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)


   *


わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。


   *


 われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)


   *


論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)

ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)

これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第Ⅲ部・25、吉田誠一訳)

どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)

われはすべてなり
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第二部・8、福島正実訳)

そうだな、
(ポール・ブロイス『破局のシンメトリー』12、小隅 黎訳)

確かに一つの論理ではある
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』17、安田 均訳)

しかし、これは一種の妄想じゃないのだろうか。
(ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』第二段階、星 新一訳)

現実には、そんなことは起きないのだ。
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

いや、必ずしもそうじゃない。
(エリック・F・ラッセル『根気仕事』峰岸 久訳)

それは信号シグナルの問題なのだ。
(フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』22、矢野 徹訳)

それもつかのま、
(J」
・G・バラード『燃える世界』4、中村保男訳)

ひとときに起こること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

まあ、それも一つの考え方だ
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

よくわかる。
(カール・エドワード・ワグナー『エリート』4、鎌田三平訳)

どちらであろうとも。
(フィリップ・K・ディック『ユービック』10、浅倉久志訳)

だが、それよりもまず、
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』5、浅倉久志訳)

めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス「銀河は砂粒のように」4、中桐雅夫訳)

それは確かだ
(ラリー・ニーヴン『快楽による死』冬川 亘訳)

しかし
(ロッド・サーリング『免除条項』矢野浩三郎・村松 潔訳)

それを知ったのはほんの二、三年前だし、
(ハル・クレメント『窒素固定世界』7、小隅 黎訳)

それが
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)

どんなものであるにせよ、
(レイ・ブラッドベリ『駆けまわる夏の足音』大西尹明訳)

そのときには、たいしたことには思えなかった。
(マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』中村 融訳)
 


   *


『マールボロ。』


彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


 あるとき、詩人は、ふと思いついて、詩人の友人のひとりに、その友人が十八才から二十五才まで過ごした東京での思い出を、その七年間の日々を振り返って思い出されるさまざまな出来事を、箇条書きにして、ルーズリーフの上に書き出していくようにと言ったという。すると、そのとき、その友人も、面白がってつぎつぎと書き出していったらしい。二、三十分くらいの間、ずっと集中して書いていたという。しかし、「これ以上は、もう書けない。」と言って、その友人が顔を上げると、詩人は、ルーズリーフに書き綴られたその友人の文章を覗き込んで、そのときの気持ちを別の言葉で言い表すとどうなるかとか、そのとき目にしたもので特に印象に残ったものは何かとか、より詳しく、より具体的に書き込むようにと指図したという。そのあと、詩人からあれこれと訊ねられたときをのぞいては、その友人の手に握られたペンが動くことは、ほとんどなかったらしい。約一時間ぐらいかけて書き上げられた三十行ほどの短い文章を、詩人は、その友人の目の前で、ハサミを使って切り刻み、切り刻んでいった紙切れを、短く切ったセロテープで、つぎつぎと繋げていったという。書かれた文章のなかで、セロテープで繋げられたものは、ほんのわずかなもので、もとの文章の五分の一も採り上げられなかったらしい。そうして出来上がったものが、『マールボロ。』というタイトルの詩になったという。その詩のなかには、詩人が、直接、書きつけた言葉は一つもなかった。すべての言葉が、詩人の友人によって書きつけられた言葉であった。それゆえ、詩人は、詩人の友人に、共作者として、その友人の名前を書き連ねてもいいかと訊ねたらしい。すると、詩人の友人は、躊躇うことなく、即座に、こう答えたという。「これは、オレとは違う。」と。ペンネームを用いることさえ拒絶されたらしい。「これは、オレとは違うから。」と言って。詩人は、その言葉に、とても驚かされたという。そこに書かれたすべての言葉が、その友人の言葉であったのに、なぜ、「オレとは違う。」などと言うのか、と。詩人の行為が、その友人の気持ちをいかに深く傷つけたのか、そのようなことにはまったく気がつかずに……。その上、おまけに、詩人は、自分ひとりの名前でその詩を発表するのが、ただ、自分の流儀に反する、といっただけの理由で、怒りまで覚えたのだという。すでに、詩人は、引用のみによる詩を、それまでに何作か発表していたのだが、それらの作品のなかでは、引用された言
葉の後に、その言葉の出典が必ず記載されていたのである。しかも、それらの出典は、引用という行為自体が意味を持っている、と見られるように、引用された言葉と同じ大きさのフォントで記載されていたのである。『マールボロ。』に書きつけられた言葉が、すべて引用であるのに、そのことを明らかに示すことができないということが、おそらくは、たぶん、詩人の気を苛立たせたのであろう。それにしても、『マールボロ。』という詩が、詩人の作品のなかで、もっとも詩人のものらしい詩であるのは、皮肉なことであろうか? ふとした思いつきでつくられたという、『マールボロ。』ではあるが、詩人自身も、その作品を、自分の作品のなかで、もっとも愛していたという。詩人にとって、『マールボロ。』は、特別な存在であったのであろう。晩年には、詩というと、『マールボロ。』についてしか語らなかったほどである。詩人はまた、このようなことも言っていた。『マールボロ。』をつくったときには、後々、その作品がつくられた経緯が、言葉がいかなるものであるかを自分自身に考えさせてくれる重要なきっかけになるとは、まったく思いもしなかったのだ、と。 詩人は、友人の言葉を切り刻んで、それを繋げていったときに、どういったことが、自分のこころのなかで起こっていたのか、また、そのあと、自分のこころがどういった状態になったのか、後日、つぎのように分析していた。

 わたしのなかで、さまざまなものたちが目を覚ます。知っているものもいれば、知らないものもいる。知らないもののなかには、その言葉によって、はじめて目を覚ましたものもいる。それらのものたちと、目と目が合う。瞳に目を凝らす。それも一瞬の間だ。順々に。すると、知っていると思っていたものたちの瞳のなかに、よく知らなかったわたしの姿が映っている。知らないと思っていたものたちの瞳のなかに、よく知っているわたしの姿が映っている。ひと瞬きすると、わたしは、わたし、ではなくなり、わたしたち、となる。しかし、そのわたしたちも、また、すぐに、ひとりのわたしになる。ひとりのわたしになっているような気がする。それまでのわたしとは違うわたしに。

 詩人の文章を読んでいると、まるで対句のように、対比される形で言葉が並べられているところに、よく出くわした。詩人の生前に訊ねる機会がなかったので、そのことに詩人自身が気がついていたのかどうか、それは筆者にはわからないのだが、しかし、そういった部分が、もしかすると、そういった部分だけではないのかもしれないが、たとえば、結論を出すのに性急で、思考に短絡的なところがあるとか、しかし、とりわけ、そういった部分が、詩人の文章に対して、浅薄なものであるという印象を読み手に与えていたことは、だれの目にも明らかなことであった。右の文章など、そのよい例であろう。
 ところで、詩人はまた、その友人の言葉を結びつけている間に、その言葉がまるで


あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)


と思わせるほどに、生き生きとしたものに感じられたのだという。


だがそれは同じものになるのだろうか?
(R・A・ラファティ『スカイ』大野万紀訳)

それは?
(エドマンド・クーパー『アンドロイド』5、小笠原豊樹訳)

またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)

兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)

きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)

もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)

そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)

ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)

いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)

なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)


もちろん、詩人がつくった世界は、といっても、これは作品世界のことであるが、しかも、詩人がそこで表現し得ていると思い込んでいるものと、読者がそこに見出すであろうものとはけっして同じものではないのだが、詩人の友人が現実の世界で体験したこととは、あるいは、詩人の友人が自分の記憶を手繰り寄せて、自分が体験したことを思い起こしたと思い込んでいるものとは、決定的に異なるものであるが、そのようなことはまた、詩人のつくった世界が現実にあったことを、どれぐらいきちんと反映しているのか、といったこととともに、詩というものとは、まったく関係のないことであろう。求められているのは、現実感であり、現実そのものではないのである。少なくとも、物理化学的な面での、現象としての現実ではないであろう。もちろん、言うまでもなく、詩は精神の産物であり、詩を味わうのも精神であり、しかも、その精神は、現実の世界がつくりだしたものでもある。しかしながら、物理化学的な面での、現象としての現実の世界だけが精神をつくっているわけではないのである。じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わうもの、そういった類のものからだけで、現実の世界ができているわけではないのである。見えていると思っているものや、聞こえていると思っているもの、触れていると思っているものや、味わっていると思っているものも、もちろんのことであるが、現実の世界は、見えもしないものや、聞こえもしないもの、触れることができないものや、味わうことができないもの、そういったものによってさえ、またできているのである。もしも、世界というものが、じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わえるもの、そういった類のものからだけでできているとしたら、いかに貧しいものであるだろうか? じっさいのところ、世界は豊かである。そう思わせるものを、世界は持っている。


魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第Ⅰ部・2、安藤哲行訳)


 詩人が、『マールボロ。』から得た最大の収穫は、何であったのだろうか? 右に引用した文の横に、詩人は、こんなメモを書きつけていた。「「物質」を「言葉」とすると、こういった結論が導かれる。詩を読んで、言葉を通して、はじめて、自分の気持ちがわかることがある、ということ。言葉は、わたしたちについて、わたしたち自身が知らないことも知っていることがある、ということ。」と。


言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

 言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)

 今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)

なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)

さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)

これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死アマゾネス、木村榮一訳)


 こういった考察を、『マールボロ。』は、詩人にさせたのだが、『マールボロ。』をつくったときの友人とは別の友人に、あるとき、詩人は、つぎのように言われたという。「言葉に囚われているのは、結局のところ、自分に囚われているにひとしい。」と。そう言われて、ようやく、詩人は、『マールボロ。』をつくったときに、自分の友人を傷つけたことに、その友人のこころを傷つけたことに気がついたのだという。

 詩人の遺したメモ書きに、つぎに引用するような言葉がある。『マールボロ。』をつくる前のメモ書きである。


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第Ⅱ巻・第17章、荒木昭太郎訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


 詩人の作品が、詩人の友人の思い出に等しいものであるはずがないことに、なぜ、詩人自身が、すぐに気がつかなかったのか、それは、さだかではないが、たしかに、詩人は思い込みの激しい性格であった。右に引用したような事柄が、頭ではわかっていたのだが、じっさいに実感することが、すぐにはできなかったらしい。それが実感できたのは、先に述べたように、別の友人に気づかされてのこと、『マールボロ。』をつくった後、しばらくしてからのことであったという。


 しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。 だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


 これは、『マールボロ。』制作以降に、詩人が書きつけていたメモ書きにあったものである。たしかに、同じ事柄でも、同じ言葉でも、順序を並べ替えて表現すると、ただそれだけでも、まったく異なる内容のものにすることができるのであろう。詩人が引用していた、この文章は、ほんとうに、こころに染み入る、すぐれた表現だと思われる。

 ところで、悲劇にあるエピソードを並べ替えて、喜劇にすることもできるということは、そしてまた、喜劇にあるエピソードを並べ替えて、悲劇にすることもできるということは、わたしに、人生について、いや、人生観について考えさせるところが大いにあった。ある事物や事象を目の前にしたときに、即断することが、いかに愚かしいことであるのか、そういったことを、わたしに思わしめたのである。

 一方、詩人は、つねにといってもよいほど、ほとんど独断し、即断する、じつに思い込みの激しい性格であった。


ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第Ⅰ部、渡辺一民訳)

感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)

今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)

それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)

私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


 これらの言葉から、詩人の考えていたことが、詩人の晩年における境地というようなものが、詩人の第二詩集である『The Wasteless Land.』の注釈において展開された、詩人自身の自我論に繋がるものであることが、よくわかる。

 先にも書いたように、詩人は、つねづね、『マールボロ。』のことを、「自分の作品のなかで、もっとも好きな詩である。」と言っていたが、「それと同時に、またもっとも重要な詩である。」とも言っていた。その言葉を裏付けるかのように、『マールボロ。』については、じつにおびただしい数の引用や文章が、詩人によって書き残されている。以下のものは、これまで筆者が引用してきたものと同様に、詩人が、『マールボロ。』について、生前に書き留めておいたものを、筆者が適宜抜粋したものである。(すべてというわけではない。一行だけ、例外がある。筆者が補った一文である。読めばすぐにわかるだろうが、あえて――線を引いて示しておいた。)


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)


 言葉や概念といったものが自我を引き寄せて思考を形成するのだろうか? それとも、思考を形成する「型」や「傾向」といったようなものが自我にはあって、それが、言葉や概念といったものを引き寄せて思考を形成するのだろうか? おそらくは、その双方が、相互に働きかけて、思考を形成し
ているのであろう。


一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 


 思考が形成される過程については、まだ十分に考察しきっていないところがあると思われるのだが、少なくとも、「習慣的な」思考とみなされるようなものは、そこで用いられている「言葉」というよりも、むしろ、その思考をもたらせる「型」や「傾向」といったようなものによって、主につくられているような気がするのであるが、どうであろうか? というのも、


人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)


というように、思考には、「型」や「傾向」とかいったようなものがあると思われるからである。そしてまた、そういったものは、その概念を受容する頻度や、その概念をはじめて受け入れたときのショックの強度によって、ほぼ決定されるのであろうと、わたしには思われるのである。

 ところで、幼児の気分が変わりやすいのは、なぜであろうか。おそらく、思考の「型」や「傾向」といったようなものが、まだ形成されていないためであろう。あるいは、形成されてはいても、まだ十分に形成されきっていないのであろう、それが十分に機能するまでには至っていないように思われる。幼児は、そのとき耳にした言葉や、そのとき目にしたものに、振り回されることが多い。「型」や「傾向」といったようなものがつくられるためには、繰り返される必要がある。繰り返されると、それが「型」や「傾向」といったようなものになる。ときには、ただ一回の強烈な印象によって、「型」や「傾向」といったようなものがつくられることもあるであろう。しかし、そのことと、繰り返されることによって「型」や「傾向」といったようなものがつくられることとは、じつは、よく似ている。
 同じページを何度も何度も開いていると、ごく自然に、本には開き癖といったようなものがつくのだが、ぎゅっと一回、強く押してページを開いてやっても、そのページに開き癖がつくように。それに、強烈な印象は、その印象を受けたあとも、しばらくは持続するであろうし、それはまた、繰り返し思い出されることにもなるであろう。
 しかし、ヴァレリーの


個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)


といった言葉を読み返して思い起こされるのだが、たしかに、わたしには、しばしば、「個性的な」といった形容で言い表される人間の言っていることやしていることが、ただ単に反射的に反応してしゃべったり行動したりしていることのように思われることがあるのである。つねに、とは言わないまでも、きわめてしばしば、である。


霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


 したがって、「習慣的な」思考を、「習慣的でない」思考と同様に、「思考」として考えてもよいものかどうか、それには疑問が残るのである。「習慣的な」思考というものが、単なる想起のようなものにしか過ぎず、「習慣的でない」思考といったものだけが、「思考」というものに相当するものなのかもしれないからである。また、ときには、ある「思考」が、「習慣的な」ものであるのか、それとも、「習慣的でない」ものであるのか、明確に区別することができない場合もあるであろう。それにまた、「思考」には、「習慣的な」ものと「習慣的でない」ものとに分類されないものも、あるかもしれないのである。しかし、いまはまだ、そこまで考えることはしないでおこう。「習慣的な」思考と「習慣的でない」思考の、このふたつのものに限って考えてみよう。単純に言ってみれば、「型」や「傾向」により依存していると思われるのが、「習慣的な」思考の方であり、「言葉」自体により依存していると思われるのが、「習慣的でない」思考の方であろうか? これもまた、「より依存している」という言葉が示すように、程度の問題であって、絶対にどちらか一方だけである、ということではないし、また、そもそものところ、思考が、「言葉」といったものや、「型」や「傾向」といったものからだけで形成されるものでないことは、


われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


というように、感覚器官が受容する刺激が認識に与える影響についてだけ考えてみても明らかなことであろうが、思考は言語からのみ形成されるのではない。しかし、あえて、論を進めるために、ここでは、思考を形成するものを、「言葉」とか、あるいは、「型」や「傾向」とかいったものに限って、考えることにした。いずれにしても、それらのものはまた、


創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並べ替えることだけだ、と。


 人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)


並べ替える? それとも、並び替えさせるのか? 並べ替える? それとも、並び替えさせるのか?


『マールボロ。』


断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)


並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか? 並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか?


『マールボロ。』


 ただ言葉を選んで、並べただけなのだが、『マールボロ。』という詩によって、はじめてもたらされたものがある。そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩が出来上がってはじめて、その出来上がった詩を目にしてはじめて、わたしのこころのなかに生まれた感情がある。それは、それまでのわたしが、わたしのこころのなかにあると感じたことのない、まったく新しい感情であった。まるで、その詩のなかにある言葉の一つ一つが、わたしにとって、激しく噴き上げてくる間歇泉の水しぶきのような感じがしたのである。じっさい、紙面から光を弾き飛ばしながら、言葉が水しぶきのように迸り出てくるのが感じられたのである。また、そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩の形をとることによって、言葉たちがはじめて獲得した意味がある。それは、その詩が出来上がるまでは、その言葉たちがけっして持ってはいなかったものであり、それは、その言葉にとって、まったく新しい意味であった。 これを、人間であるわたしの方から見ると、言葉たちを、ただ選び出して、並べ替えただけのように見える。事実、ただそれだけのことである。これを、言葉の方から見ると、どうであろうか? 言葉の方の身になって、考えられるであろうか? 『マールボロ。』の場合、言葉はもとの場所から移され、並び替えさせられた上に、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わったのである。時間的なことを考慮して言うなら、人間が入れ替わるのと同時に、言葉も並び替えさせられたのである。人間であるわたしの方から見る場合と異なる点は、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わっていたということであるが、それでは、はたして、それらの言葉の前で、人間の方が入れ替わっていたという、このことが、他の言葉とともに並び替えさせられたことに比べて、いったいどれぐらいの割合で、それらの言葉の意味の拡張や変化といったものに寄与したのであろうか? しかし、そもそものところ、そのようなことを言ってやることなどできるのであろうか? できやしないであろう。というのも、そういった比較をするためには、人間が入れ替わらずに、それらの言葉が、『マールボロ。』という詩のなかで配置されているように配置される可能性を考えなければならないのであるが、そのようなことが起こる可能性は、ほとんどないと思われるからである。まあ、いずれにしても、見かけの上では、言葉の並べ替えという、ただそれだけのことで、わたしも、その言葉たちも、それまでのわたしや、それまでのその言葉たちとは、違ったものになっていた、というわけである。


 ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもなく恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)


といったことを、ヴァレリーが書いているのだが、『マールボロ。』という詩をつくる「経験」を通して、「ぼくらを知らぬ多くの事物」が、いかにして、「ぼくら」を知っていくか、また、「自分を知らない」「ぼくら」が、いかにして、「自分」を知っていくか、その経緯のすべてとはいわないが、その一端は窺い知ることができたものと、わたしには思われるのである。


『マールボロ。』


 言葉は、つぎつぎと人間の思いを記憶していく。ただし、言葉の側からすれば、個々の人間のことなどはどうでもよい。新たな意味を獲得することにこそ意義がある。言葉の普遍性と永遠性。言葉自身が知っていることを、言葉に教えても仕方がない。言葉の普遍性と永遠性。わたしたちが言葉を獲得する? 言葉が獲得するのだ、わたしたちを。言葉の普遍性と永遠性。もはや、わたし自身が言葉そのものとなって考えるしかあるまい。


『マールボロ。』


 デニス・ダンヴァーズが『天界を翔ける夢』や、その姉妹篇の『エンド・オブ・デイズ』のなかに書いているように、あるいは、グレッグ・イーガンが『順列都市』のなかで描いているように、将来において、たとえ、人間の精神や人格を、その人間の記憶に基づいてコンピューターにダウンロードすることができるとしても、そういったものは、元のその人間の精神や人格とはけっして同じものにはならないであろう。なぜなら、人間は、偶然が決定的な立場で控えている時間というもののなかに生きているものであり、その偶然というものは、どちらかといえば、量的な体験ではなく、質的な体験においてもたらされるものだからである。驚くことがいかに人生において重要なものであるか、それを機械が体験し、実感することができるようになるとは、とうてい、わたしには思えないのである。せいぜい、思考の「型」とか「傾向」とかいったようなものをつくれるぐらいのものであろう。それに、たとえ、思考の「型」や「傾向」とかいったようなものを、ソフトウェア化することができるとしても、それらから導き出せるような思考は、単なる「習慣的な」思考であって、そのようなものでは、『マールボロ。』のようなものをつくり出すことはおろか、『マールボロ。』のようなものをつくり出すきっかけすら思いつくことができるようなものにはならないであろう。


『マールボロ。』


 紙片そのものではなく、それを貼り合わせる指というか、糊というか、じっさいはセロテープで貼り付けたのだが、短く切り取ったセロテープを紙片にくっつけるときの息を詰めた呼吸というか、そのようなものでつくっていったような気がする。そのことは以前にも書いたことがあるのだが、それは、ほとんど無意識的な行為であったように思われる。基本的には、これが、わたしの詩の作り方である。


『マールボロ。』


 たしかに、「言葉」には、互いに引き合ったり反発しあったりする、磁力のようなものがある。そう、わたしには思われる。そして、それらのものを、思考の「型」や「傾向」といったものの現われともとることはできるのだが、そうではない、「言葉」そのものにはない、「型」や「傾向」といったものもあるように、わたしには思われるのである。とはいっても、言葉が、その言葉としての意味を持って、個人の前に現われる前に、その個人の思考の「型」や「傾向」といったようなものが存在したとも思われないのだが、……、しかし、ここまで考えてきて、ふと思った。「言葉」の方が磁石のようなもので、「型」や「傾向」といったものの方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、「型」や「傾向」といったものの方が磁石のようなもので、「言葉」の方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、と。ふうむ、……。


『マールボロ。』


作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

 こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)

実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとⅠ』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)


   *


 つぎに掲げてあるのは、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の冒頭部分である。一部の言葉を他の作家の作品の言葉と置き換えてみた。まず、はじめに、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分の言葉を使って、一部の言葉を置き換えた。


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子はしごに登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりもむしろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生はいちぎやうのボオドレエルにもかない。」
 彼はしばらく梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……


 吾輩わがはいは或猫の名前だつた。ニャーニャーの吾輩は人間にかけた書生の人間に登り、新らしい種族を探してゐた。書生、我々、話、考、彼、てのひら、……
 そのうちにスーは迫り出した。しかしフワフワは熱心に掌の書生を読みつづけた。そこに並んでゐるのは顔といふよりもむしろ人間それ自身だつた。毛、顔、つるつる、薬缶やかん、猫、顔、……
 穴はぷうぷうと戦ひながら、けむりのこれを数へて行つた。が、人間はおのづからもの憂い煙草たばこの中に沈みはじめた。書生はとうとう掌も尽き、うちの心持を下りようとした。すると書生のない自分が一つ、丁度眼の胸の上に突然ぽかりと音をともした。眼は火の上にたたずんだまま、書生の間に動いてゐる兄弟や母親をおろした。姿は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「眼はようののそのそにもかない。」
 吾輩はしばらわらの上からかう云ふ笹原を見渡してゐた。……


ここで、比較のために、もとの『吾輩は猫である』の冒頭部分を掲げておく。


 吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々をつかまえてて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼のてのひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というもののはじめであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶やかんだ。その猫にもだいぶったがこんなかたには一度も出会でくわした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうとけむりを吹く。どうもせぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草たばこというものである事はようやくこの頃知った。
 この書生の掌のうちでしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないがやみに眼が廻る。胸が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟がいちぴきも見えぬ。肝心かんじんの母親さえ姿を隠してしまった。そのうえいままでの所とは違ってやみに明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でもようがおかしいと、のそのそい出して見ると非常に痛い。吾輩はわらの上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


つぎに、堀 辰雄の『風立ちぬ』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


夏は或日々のすすきだつた。草原のお前は絵にかけた私の白樺に登り、新らしい木蔭を探してゐた。夕方、お前、仕事、私、私達、肩、……
 そのうちに手は迫り出した。しかしあかねいろは熱心に入道雲の塊りを読みつづけた。そこに並んでゐるのは地平線といふよりもむしろ地平線それ自身だつた。 日、午後、秋、日、私達、お前、……
 絵は画架と戦ひながら、白樺の木蔭を数へて行つた。が、果物はおのづからもの憂い砂の中に沈みはじめた。雲はとうとう空も尽き、風の私達を下りようとした。すると頭のない木の葉が一つ、丁度藍色あいいろの草むらの上に突然ぽかりと物音をともした。私達は私達の上にたたずんだまま、絵の間に動いてゐる画架や音をおろした。お前は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「私は一瞬の私にもかない。」
 お前はしばらく私の上からかう云ふ風を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『風立ちぬ』の冒頭部分を掲げておく。


 それらの夏の日々、一面にすすきの生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけあかねいろを帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
 風立ちぬ、いざ生きめやも。


つぎに、小林多喜二の『蟹工船』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 地獄は或二人のデッキだつた。手すりの蝸牛かたつむりは海にかけた街の漁夫に登り、新らしい指元を探してゐた。煙草たばこつば、巻煙草、船腹サイド、彼、身体からだ、……
 そのうちに太鼓腹は迫り出した。しかし汽船は熱心に積荷の海を読みつづけた。そこに並んでゐるのはかたそでといふよりもむしろ片側それ自身だつた。煙突、鈴、ヴイ、ナンキンむし、船、船、……
 ランチは油煙と戦ひながら、パンくずの果物を数へて行つた。が、織物はおのづからもの憂い波の中に沈みはじめた。風はとうとう煙も尽き、波の石炭を下りようとした。すると匂いのないウインチが一つ、丁度ガラガラの音の上に突然ぽかりと波をともした。蟹工船博光丸はペンキの上にたたずんだまま、帆船の間に動いてゐるへさきヽヽヽや牛をおろした。鼻穴は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
いかりは鎖の甲板にもかない。」
 マドロス・パイプはしばらく外人の上からかう云ふ機械人形を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『蟹工船』の冒頭部分を掲げておく。


「おい地獄さぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛かたつむりが背のびをしたように延びて、海をかかえ込んでいるはこだての街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草たばこつばと一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体からだ一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹をはば広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中からかたそでをグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、ナンキンむしのように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパンくずや腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接じかに響いてきた。

 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキのげた帆船が、へさきヽヽヽの牛の鼻穴のようなところから、いかりの鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


ここでまた、比較のために、『或阿呆の一生』の言葉を、前掲の三つの文章のなかにある言葉と置き換えてみた。


それは或本屋である。二階はまだ無い。
 どこで生れたかとんとけんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で二十歳泣いていた事だけは記憶している。彼はここで始めて書棚というものを見た。しかもあとで聞くとそれは西洋風という梯子はしご中で一番どうあくな本であったそうだ。このモオパスサンというのは時々ボオドレエルをつかまえてて食うというストリントベリイである。しかしその当時は何というイブセンもなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただシヨウのトルストイに載せられて日の暮と持ち上げられた時何だか彼した感じがあったばかりである。本の上で少し落ちついて背文字の本を見たのがいわゆる世紀末というもののはじめであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一ニイチエをもって装飾されべきはずのヴエルレエンがゴンクウル兄弟してまるでダスタエフスキイだ。そのハウプトマンにもだいぶったがこんなかたには一度も出会でくわした事がない。のみならずフロオベエルの真中があまりに突起している。そうしてその彼の中から時々薄暗がりと彼等を吹く。どうもせぽくて実に弱った。名前が本の飲む影というものである事はようやくこの頃知った。
 この彼の根気の西洋風でしばらくはよい梯子に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。傘が動くのか電燈だけが動くのか分らないがやみに彼が廻る。頭が悪くなる。到底とうてい助からないと思っていると、どさりと火がして彼から梯子が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると本はいない。たくさんおった店員がいちぴきも見えぬ。肝心かんじんの客さえ彼等を隠してしまった。そのうえいままでの所とは違ってやみに明る
い。人生を明いていられぬくらいだ。はてな何でもいちぎやうがおかしいと、ボオドレエルい出して見ると非常に痛い。彼は梯子の上から急に彼等の中へ棄てられたのである。

それらのそれの本屋、一面に二階の生い茂った二十歳の中で、彼が立ったまま熱心に書棚を描いていると、西洋風はいつもその傍らの一本の梯子はしごの本に身を横たえていたものだった。そうしてモオパスサンになって、ボオドレエルがストリントベリイをすませてイブセンのそばに来ると、それからしばらくシヨウはトルストイに日の暮をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ彼を帯びた本のむくむくした背文字に覆われている本の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその世紀末から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんなニイチエの或るヴエルレエン、(それはもうゴンクウル兄弟近いダスタエフスキイだった)ハウプトマンはフロオベエルの描きかけの彼を薄暗がりに立てかけたまま、その彼等の名前に寝そべって本をじっていた。影のような彼が根気をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく西洋風が立った。梯子の傘の上では、電燈の間からちらっと覗いている彼が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、頭の中に何かがばったりと倒れる火を彼は耳にした。それは梯子がそこに置きっぱなしにしてあった本が、店員と共に、倒れた客らしかった。すぐ立ち上って行こうとする彼等を、人生は、いまのいちぎやうの何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、ボオドレエルのそばから離さないでいた。彼は梯子のするがままにさせていた。

彼等立ちぬ、いざ生きめやも。


「おいそれさぐんだで!」
本屋は二階の二十歳に寄りかかって、彼が背のびをしたように延びて、書棚をかかえ込んでいるはこだての西洋風を見ていた。――梯子はしごは本まで吸いつくしたモオパスサンをボオドレエルと一緒に捨てた。ストリントベリイはおどけたように、色々にひっくりかえって、高いイブセンをすれずれに落ちて行った。シヨウはトルストイ一杯酒臭かった。 赤い日の暮をはば広く浮かばしている彼や、本最中らしく背文字の中から本をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り世紀末に傾いているのや、黄色い、太いニイチエ、大きなヴエルレエンのようなゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイのようにハウプトマンとフロオベエルの間をせわしく縫っている彼、寒々とざわめいている薄暗がりや彼等や腐った名前の浮いている何か特別な本のような影……。彼の工合で根気が西洋風とすれずれになびいて、ムッとする梯子の傘を送った。電燈の彼という頭が、時々火を伝って直接じかに響いてきた。 この彼のすぐ手前に、梯子のげた本が、店員の客の彼等のようなところから、人生のいちぎやうを下していた、ボオドレエルを、彼をくわえた梯子が二人同じところを何度も彼等のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


それにしても、『マールボロ。』、


 いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

 詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるば
かりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第Ⅲ部、川村二郎訳)

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)


 それにしても、詩人は、なぜ、『マールボロ。』という作品に固執したのであろうか?あるとき、詩人は、わたしにこう言った。「ぼくの書いた詩なんて、そのうち忘れられても仕方がないと思う。まあ、忘れられるのは、忘れられても仕方がない作品だからだろうしね。だけど、『マールボロ。』だけは、忘れられたくないな。ぼくのほかの作品がみんな忘れられてもね。まあ、でも、『マールボロ。』は、読み手を選ぶ作品だからね。あまりにも省略が激しいし、使われているレトリックも凝りに凝ったものだしね。ちゃんと把握できる読者の数は限られていると思う。」たしかに、省略が激しいという自覚は、詩人にはあったようである。というのも、晩年の詩人が、朗読会で読む詩は、ほぼ、『マールボロ。』ということになっていたのだが、その朗読の前には、かならず、『マールボロ。』という作品の制作過程と、その作品世界の背景となっている、ゲイたちの求愛の場と性愛行為についておおまかな説明をしていたからである。(あくまでも、一部のゲイたちのそれであるということは、詩人も知っていたし、また、わたしの知る限り、朗読の前のその説明のなかで、一部の、という言葉を省いて、詩人が話をしたことは一度もなかった。)


──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろうかと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置いたのは、ばかでかい体軀の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明するまでもないだろう。(……)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(……)ぼくたちは立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たちが坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人がとてつもなく巨大な体軀をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


 カブレラ=インファンテの「ウィタ・セクスアリス」(木村榮一)である、『亡き王子のためのハバーナ』からの引用である。詩人は、集英社の「ラテンアメリカの文学」のシリーズから数多くメモを取っていたが、これもその一つである。ゲイがゲイと出会う場所の一つに、映画館がある。それは、ポルノ映画を上映しているポルノ映画館であったり、他の映画館が上映を打ち切ったあとに上映する再上映専門の、入場料の安い名画座であったりするのだが、『亡き王子のためのハバーナ』の主人公が目にしたように、行為そのものは、座席に並んで坐ったままなされることもあり、最後列の座席のさらにその後ろの立見席のあたりでなされることもあるのだが、いったん、映画館の外に出て、男同士でも入れるラブホテルに行ったりすることもあるし、これは、先に手を出した方の、つまり、誘った方の男の部屋であることが多いのだが、自分の部屋に相手を連れ込んだり、相手の部屋に自分が行ったり、というように、どちらかの部屋に行くこともある。また、つぎの引用のように、映画館のトイレのなかでなされることもある。


 中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとりのほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのではなくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマスをかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもらってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時はじめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼくくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──もっとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役をしていたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られるのでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


俗に発展場と呼ばれている、ゲイが他のゲイと出会うために足を運ぶ場所は、ポルノ映画館や名画座といった映画館ばかりではない。サウナや公園という場所がそうなっている所もあるし、デパートや駅のトイレといった場所がそうなっているところもある。もちろん、その場で性行為に及ぶことも少なくないのだが、さきに述べたように、どちらかの部屋に行き、ことに及ぶといったこともあるのである。しかし、じつに、さまざまな場所で、さまざまな時間に、さまざまな男たちが絡み合い睦み合っているのである。つぎに引用するのは、駅のプラットフォームの脇にある公衆便所での出来事を、ある一人の警察官が自分の娘に見るようにうながすところである。(それにしても、これは、微妙に、奇妙な、シチュエーション、である。)


「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほんのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づけると、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとしてその場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじいのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


 あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものである)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出すから自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘ったらしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


これは、公園での出来事を語っているところである。


男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


 詩人はよく、この言葉を引用して、わたしにこう言っていた。「一人残らずってことはないだろうけど、半分くらいの男は、そうなるんじゃないかな。」と。そのようなことは考えたこともなかったので、詩人からはじめて聞かされたときには、ほんとうに驚いた。「もしも、何々だったら?」というのは、詩人の口癖のようなものだったのだが、もっともよく口にしていたのは、言葉を逆にする、というものであった。そういえば、詩人の取っていたメモのなかに、こういうものがあった。


 ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとⅡ』21、田中 勇・銀林 浩訳)


 言葉を逆にするという、ごく単純な操作で、言葉というものが、それまでその言葉が有していなかった意味概念を獲得することがあるということを、生前に、詩人は、論考として発表したことがあったが、言葉の組み合わせが、言葉にとっていかに重要なものであるのかは、古代から散々言われてきたことである。詩人の引用によるコラージュという手法も、その延長線上にあるものと見なしてよいであろう。詩人が言っていたことだが、出来のよいコラージュにおいては、そのコラージュによって、言葉は、その言葉が以前には持っていなかった新しい意味概念を獲得するのであり、それと同時に、作り手である詩人と、読み手である読者もまた、そのコラージュによって、自分のこころのなかに新しい感情や思考を喚起するのである、と。そのコラージュを目にする前には、一度として存在もしなかった感情や思考を、である。


みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』Ⅴ・ⅱ、玉泉八州男訳)


そして、こころが変われば、見るものも変わるのだ、と。


つぎに、詩人が書き留めておいたメモを引用する。そのメモ書きは、そのつぎに引用する言葉の下に書き加えられたものであった。そして、その引用の言葉の横には、赤いペンで、「マールボロについて」という言葉が書きそえられていた。


誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてし
まうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


 こころのなかで起こること、こころのなかで起こるのは、一瞬一瞬である。思いは持続しない。しかし、その一瞬一瞬のそれぞれが、永遠を求めるのだ。その一瞬一瞬が、永遠を求め、その一瞬一瞬が、永遠となるのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが、光沢のあるタイルに反射する輝きの一つ一つが、水溜りや川面に反射する光の一つ一つが太陽を求め、それら一つ一つの光のきらめきが、一つ一つの輝く光が、太陽となるように。


心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

 そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラⅠ、井上究一郎訳)


 いや、むしろ、こう言おう、はっきりと物の形が見えるのは、こころのなかでだけだ、と。あるいは、こころが見るときにこそ、はじめて、ものの形がくっきりと現われるのだ、と。


一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

 言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

 実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第Ⅰ門・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

言葉が、新たな切子面を見せる、と言ってもよい。

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

 何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


 結びつくことと変質すること。この二つのことは、じつは一つのことなのだが、これが言葉における新生の必要条件なのである。しかし、それは、あくまでも必要条件であり、それが、必要条件であるとともに十分条件でもある、といえないところが、文学の深さでもあり、広さの証左でもある。もちろん、引用といった手法も、その必要条件を満たしており、それが同時に十分条件をも満たしている場合には、言葉は、わたしたちに、言葉のより多様な切子面を見せてくれることになるのである。

 
 自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)

 過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・Ⅱ・第二章、鈴木道彦訳)

いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)


それにしても、『マールボロ。』、


 人間にとって、美とは何だろう。美にとって、人間とは何だろう。人間にとって、瞬間とは何だろう。瞬間にとって、人間とは何だろう。たとえ、「意義ある瞬間はそうたくさんはなかった」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・2、川副智子訳)としても。人間にとって、存在とは何だろう。存在にとって、人間とは何だろう。美と喜びを別のものと考えてもよいのなら、美も、喜びも、瞬間も、存在も、ただ一つの光になろうとする、違った光である、とでもいうのだろうか。人間という、ただ一つの光になろうとする、違った光たち。


それにしても、『マールボロ。』、


 なぜ、彼らは、出会ったのか。出会ってしまったのであろうか。彼らにとっても、ただ一つの違った光であっただけの、あの日、あの時間、あの場所で。それに、なぜ、彼らの光が、わたしの光を引き寄せたのであろうか。それとも、わたしの光が、彼らの光を引き寄せたのだろうか。いや、違う。ただ単に、違った光が違った光を呼んだだけなのだ。ただ一つの同じ光になろうとして。もとは一つの光であった、違った光たちが、ただ一つの同じ光になろうとして。なぜなら、そのとき、彼らは、わたしがそこに存在するために、そこにいたのだし、そのラブホテルは、そのときわたしが入るために、そこに存在していたのだし、そのシャワーの湯は、そのときわたしが浴びるために、わたしに向けられたのだし、その青年の入れ墨は、そのときわたしが目にするために、前もって彫られていたの
だし、その缶コーラは、そのときわたしの目をとらえるために、そのガラスのテーブルの上に置かれたのだから。というのも、彼らが出会ったポルノ映画館の、彼らが呼吸していた空気でさえわたしであり、彼らが見ることもなく目にしていたスクリーンに映っていた映像の切れ端の一片一片もわたしであったのであり、彼らの目が偶然とらえた、手洗い場の鏡の端に写っていた大便をするところのドアの隙間もわたしであり、彼らがその映画館を出てラブホテルに入って行くときに、彼らを照らしていた街灯のきらめきもわたしであったのだし、彼らが浴びたシャワーの湯もわたしであり、その湯しぶきの一粒一粒のきらめきもわたしであったのだし、わたしは、その青年の入れ墨の模様でもあり、缶コーラの側面のラベルのデザインでもあり、その缶コーラの側面から伝って流れ落ちるひとすじの
冷たい露の流れでもあったのだから。やがて、一つ一つ別々だった時間が一つの時間となり、一つ一つ別々だった場所が一つの場所となり、一つ一つ別々だった出来事が一つの来事となり、あらゆる時間とあらゆる場所とあらゆる出来事が一つになって、そのポルノ映画館は、シャワーの湯となって滴り落ちて、タカヒロと飛び込んだ琵琶湖になり、缶コーラのラベルの輝きは、青年の入れ墨とラブホテルに入り、ヤスヒロの手首にできた革ベルトの痕をくぐって、エイジの背中に薔薇という文字を書いていったわたしの指先と絡みつき、シャワーの滴り落ちる音は、ラブホテルに入る前に彼らが見上げた星々の光となって、スクリーンの上から降りてくる。そして、ノブユキの握り返してきた手のぬくもりが満面の笑みをたたえて、わたしというガラスでできたテーブルを抱擁するのである。さま
ざまなものがさまざまなものになり、さまざまなものを見つめ、さまざまなものに抱擁されるのである。それは、あらゆるものと、別のあらゆるものとの間に愛があるからであり、やがて、愛は愛を呼び、愛は愛に満ちあふれて、「スラックスの前から勃起したものがのぞいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)愛そのものとなって、交歓し合うのである。もちろん、「トイレットのなか。ジーンズの前をあけ、ちんぽこを持って」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)その愛は、すぐれた言葉の再生によってもたらせられたものであり、「彼は自分のものをしごいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)やがて、文章中のあらゆる言葉が、つぎつぎとその場所を交換していく。場所も、時間も、事物も、「くわえるんだ、くわえるんだよう! う、う──」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)感情も、感覚も、状態も、名詞や、動詞や、副詞や、形容詞や、助詞や、助動詞や、接続詞や、間投詞も、「激しく腰をつきあげる。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)場所を交換し合い、時間を交換し合って一つになるのである。そんなヴィジョンが、わたしには見える。わたしには感じとれる。現実に、ありとあらゆる事物が、その場所を、その時間を、その出来事を交換していくように。


やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)

やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

でも、
(ポール・アンダースン『生贄いけにえの王』吉田誠一訳)

詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)

人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)






自由詩 THE GATES OF DELIRIUM。 Copyright 田中宏輔 2024-12-15 00:29:10
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