ぼくの龍
天使るび(静けさが恋しい)
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(……)
命の宿るキャンドルが龍の形をしていたのだろうか。山を昇る無数の龍が空を目掛けて飛んでいる。いろは唄を奏でるようにお家のなかでひとりになって誦文をくちずさむ。しんと静まる影のうち。ぼくはお部屋で光っている。ベッドの上で胎児の姿勢で横になる。円を描いた腕の透き間に小さな龍がしゅんと収まる。子どもの龍とお眠りだ。美しい夢のひととき。
続いては大きな鳥居さんの向こう側よりそそり立つ天空に宿るお城の夢。お城の窓のあちこちに森の枝が生えている。小さな鳥がわぁわぁと巣のなかでお喋りだ。鳥のおかあさんが飛んでいておかあさん同志で絡まるようにくるりくるりとさらに飛ぶ。何者かに名前を呼ばれて振り向くと現実へと引っ張られた。
夢のなかのあの神社を知っている。御祭神は仁徳天皇だ。ぼくはいずれ百舌鳥耳原中陵までご挨拶にゆくのだ。そう。地元より少し離れた集落のお祭りの福引きを五年連続でぼくは当てたのだった。あまりにも当選するので小学五年生のときに黙って福引きを三枚掴んで引いたのだ。びっくりする。全て当選していたものだから。案の定よく年は外れくじを引いた。それ以降は学校でいぢめられていたものだから祭りにも不参加。今年の初めまで長期入院していた病院でこの夢と出逢えたときにぼくは泣いていた。美し過ぎて。
目が醒める瞬間に夢のなかで人間のオトウサンに呼ばれたような気がした。そんなことはどうでもいい! ぼくは泣いて。病室で泣いて。嬉しい。嬉しいと仁徳天皇のおられる神社との再会をいち日中歓んで踊った。
来週のぼくの誕生日にPTSDに対する認知処理療法(CPT)が開始される。いままでとても長かった。あまりにも大きな壁のうちを引っ掻きながら大量の血を心から流してきた。ぼくは未熟だ。親族からの虐待の音声をSNSにアップロードしたこともある。危ない橋を渡るような人生。
そう。あのときの長期入院の始まりに地元の警察へと向かう道でうずくまっていたところを地域おこし協力隊の方に拾われて無事に目的を果たせたのだ。事件性がなければ警察は動かないのも本当だ。ぼくには精神科への通院歴があったから病院へと搬送されるだけだった。
医師から任意入院を勧められたものの通院している場所と異なるために拒絶すると警察の方が両親を連れて来られた。「るびちゃん(仮)もう一緒に住めんよ」チチはいう。「全部あんたがしたのぢゃない!」
(……)
おかあさんはずっと味方だと想っていた。おかあさんのひとことで胸の奥の腫れものが音を立てて破裂する想いに打ちひしがれた。医療従事者へと加虐のいきさつを説明する気力をなくしてオヤのいいつけを守るようにチチからの申し出を受け容れた。「SNSも削除するように」
ぼくは利口ではない。ヒトの差し出す手を握り返すやり方をずっと知らないままで生きてきた。DVシェルターにいたときに黙って「新約聖書」をお贈りしてくださったスタッフさま。
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ぼくは聖書を開くのも怖かった。「チチというお言葉は父なる神のことなのだよ」スタッフさまからの励まし。(!)ありがとうございます(ぼくはいまトオイメをしている)
「マタイによる福音書 23:9」
今年の初めに真剣な自殺未遂をした後にICUで治療を受けて転院して実家へと退院して入院して。いまの病院へと転院してきた。
こちらの病院でも心細い想いをしていた。少し素直になれたのは生まれて初めてできたお友達が夢のなかで何度も励ましてくれたから。
夢のなかで目が醒めるとぼくはそいつの腕のなかにいて「ずっと探していたのだ・見つけた」っていってくれた。「ぇ・ぼくはお眠りしていたのか・きみと再会できた歓びを覚えていないなんて!」ぼくが嘆くとそいつは裸の腕でぼくをぎゅうっと抱きしめてくれた。
ぼくは嬉しい。今日も嬉しい。二度とお逢いできない最初で最後のお友達にいまもどうしても励まされている。そいつがいて嬉しい。そいつと出逢えたこと嬉しい。おまえがぼくを嫌いになれないといったようにぼくもおまえのことが。嫌いになる訳ないぢゃないか!
(……)
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