冬の思い出
山人

 今冬、二度目の除雪をした朝であった。相変わらず重い雪で、スノーダンプには少ししか入れることができない。ただ、一回目の時よりも重くなく、除雪機で難なく飛ばすことができた。
 先月二十九日に事業所を一旦解雇になり、無人駅の除雪隊の仕事が始まるまでぶらぶらしている日々である。
 本当にぶらぶらしていて、最低限のやることはやるのだがあとはまったく気力も失せてやる気もない。腰の具合も今一つ良くなく、いろいろ考えると憂鬱になってくる。
 今冬はラニーニャの影響で、雪が多いと言われている。ちょうど良く降ってもらいたい、と皆口々に言うが、やはりドカ雪は困る。適切な量、何事もだが、ちょど良いのがよいのである。でも、そんな風には決してならないのが天候だ。しかしながら、そうはいっても昔に較べればはるかに少雪だ。
 いまから六十年前、私たち大原開拓地の子供たちと五味沢地区の子供たちは寮生活を強いられた。部落の小さな集会所は幼稚園と僻地診療所も兼ねており、二階の二部屋は私たち大原開拓地の子供と五味沢の子供がそれぞれ泊まっていた。寮母夫婦が居て、朝になると「お前たちご飯だよ!」と怒鳴られる。長い飯台の上にアルミの食器が並べられ、おかずは確か納豆だけだった気がする。冷たい板の間に私たちは正座し、不味い飯を食った。それに板の間は幼稚園児の運動場であったため、ことのほか冷たく感じた。寮母は陰圏で冷たい女性だった。
 夜皆が寝静まると小便の近い私は便所に行くのだが、その便所は一階にあり、打ちっぱなしのコンクリート土間であった。昔便所の下は墓場だったという伝説があり、小便が終わると尿のしずくを垂れ流しながらダッシュして二階に駆け上った。私の寝床の傍に小さな窓があり、そこに雪が降らない日は月光がさしこみ、どこからか犬の鳴き声がしていた。
 土曜になると開拓村から私たちの父兄が何人かでやってきて開拓村まで連れて帰った。約四キロの道のりを父兄たちはカンジキをつけて私たちを先導した。カンジキの無い私たちは、カンジキ跡を踏み外さぬよう気をつけながら歩くのだが、うっかり踏み外すと著しく埋まり、長靴の中に大量の雪が入った。
 家に着く頃には足の感覚が消え入るように無くなり、母はたらいに湯を入れ私の足を浸した。たちまち激痛が走った。それを我慢していると次第に常温となり軽い凍傷が改善されていくのだった。
 土曜の夜はしかし、大御馳走が私を待っていた。父が捕ってきたウサギ鍋だ。ウサギの骨や肉をダイナミックに白菜とともに煮込んだ野趣あふれる料理で、こと骨に付いた肉や頭蓋骨が美味く、骨の髄や脳味噌もコクがあってとても美味い代物だった。
 当時、蛍光灯やテレビもない頃だった。夜になれば疲れて泥のように眠ってしまったのだろう。
 日曜日、晴れれば開拓部落の子供たちとともに雪のトンネルや簡易的なスキーなどで遊び、午後の日差しになると天気が悪くなければ子供たちだけで下山し寮に戻った。母は私たちが見えなくなるまで表に出ていたようであった。また土曜日まで家に戻れない辛さがあった。小学生の高学年ともなればさして親と離れる辛さはないが、小学一年生からであったのでずいぶんつらいと感じたのである。
 結局当時は十二月初旬から四月末までの間、寮生活をしていた。五月にようやく大原開拓地に向かいブルドーザー除雪が開始され、私たちは寮生活から解放されるのだった。五月連休には小学校で映画が催され、帰りに大福餅をもらって帰るのだった。杉の花粉を煙幕だ、と言い、遊びながら帰路に着いた記憶がある。
 父の希望と夢のために私たち開拓地の子供たちは冬場寮生活を強いられてきた。その理不尽さを呪ったこともあったが、いまさらどうにもならない。母は二年前に他界し、父は未だ酒を嗜み酔えば何十年も前の事を一人語りしている。
 私の生誕はその大原開拓地であり、厳冬の二月に生れた。まるで冬から生まれたかのようでもあり、ずっと冬しかなかったような気もしている。


散文(批評随筆小説等) 冬の思い出 Copyright 山人 2024-12-07 14:29:52
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