異変
ホロウ・シカエルボク
目覚めの景色は死蝋を思わせた、ベルベット・アンダーグラウンドが小さな音で流れていた、それは右手に握られていた俺の携帯から聞こえているのだった、ここがどこなのか思い出せなかった、が、思い出そうという意欲も無かった、目が覚めたのだからそのうち思い出すだろう、そんな程度に考えているだけだった、まだ動き出す気にならなかった、仰向けに寝ていた、だからここが自分の部屋でないことだけはすぐにわかったのだ、左側に寝返りを打った、グロテスクな造形の―おそらくは悪魔のような生きもののゴム製のマスクがまず目に飛び込んできた、頭からすっぽり被る、汎用型のアレだ、その顔はなにかを思い出させたけれど、言語化出来る状態になるにはもう少し時間が必要だった、もう少し眠ろうか、そう思って目を閉じてみたものの、気怠さの割に睡魔はもう消えてしまっているようだった、しかたがない…俺は上半身を起こした、キイィ、と金属が擦れるような音がした、昔流行ったパイプベッドというやつだ、二十代の頃には俺も持っていた、隣に見知らぬ女でも居るのかと思ったが、そんな様子はまるで無かった、ならば俺はどうして、ここでひとりで眠っていたのだ?何も思い出せなかった、昨夜は部屋に居たはずだ、酒を飲んだり、ヤバい薬に手を出したり―そんな、記憶を無くしてしまうようなヤンチャな真似は一切していない、こういう時は狼狽えないように努めるのがいい、別に今すぐに知りたいというわけでもない、思い出せないというのならそれでもいい、なにか不思議なことがあって見知らぬ部屋で寝ていた、そんなネタ話にしてしまうだけのことだ、上体を起こしてしばらく待ってみたけれど、特別何も起こらなかった、ようやくお目覚めかね、なんて、ゴリゴリのバリトンで語りかけられるなんてこともなかった―ドラマじゃあるまいし―まあ、シチュエーションだけなら、多少ドラマ的な感じではあるけどな…億劫だったが、ベッドを降りてみた、洋服は、外出する時によく身に着けているものだった、ということは、俺は自分の意志で外出したのだ、部屋にはパイプベッドと洗面台と、トイレと思わしき簡易的な狭い部屋があるだけだった、工事現場なんかによくあるレンタルトイレを、素人が見様見真似で木で作ってみた、という感じだった、水洗かどうか確かめたかったのだが、その前に顔を洗うことにした、ここにしばらく居るのならそのうち知ることになるだろう、もしもすぐに出て行けるようなら、別にこの先一生知ることが無くても構わない…タオルが見当たらなかったので濡れたままにした、スッキリしても肝心なことはわからないままになっていた、自分の人生でそんなことは初めてだった、酒にも薬にも興味はなかった、昨夜の記憶がまるでないなんて経験は、一生しないままで終わるだろうと思っていた、記憶が無くなる理由―ふと、そんなことが気になった、酒やドラッグ以外に、どんなものがある?例えば、頭を酷く打つとか―?さっき顔を洗った時には、そういった痛みはまるで感じなかった、そっと後頭部に手をやってみると、ちょうど後頭部の曲線と首が繋がっているあたりに、打撲時のような痛みを感じた、一瞬、身体が緊張してしまうくらいの強烈な痛みだった、俺はため息をついた、なるほど…俺は頭部を強打した、だから記憶が無くなった、では、頭部を強打した原因はなんだ?何かが起こったのだ―ふと、カーテンが動いているのに気が付いた、窓が開いているのか?侵入者に頭を殴られた?カーテンを開いてみて愕然とした、窓は枠ごと無くなっていて、窓の外には砂漠と言うか荒野と言うか―とにかく、何も無くだだっ広い光景がただ広がっていた、気温は暑くも寒くもなかった、昨夜は少し肌寒いくらいだったはずだ、太陽は上がっているのかいないのか、明るくはなかったが暗くもなかった、かといって普通に曇っているのかというと、そういう感じでもなかった、なんというか、メディアでたまに見る地球以外の惑星のような風景だった、俺はまだ眠っているのだろうか、と自問しかけたがすぐに打ち消した、なにかが起こっているんだ、誰も答えを教えてくれそうもない、自分で突き止めなければならない、とりあえず部屋の中をもう一度見渡してみた、そしてあることに気付いた、部屋の中はがらんどうだったが、それは間違いなく俺が住んでいる部屋だった、トイレが変な具合に見えているのは、部屋とそこを区切っていた壁が取り払われて、壁紙が剥がれたりとかしたせいのようだ、いや、だけど…本棚やステレオ・システム、テレビやパソコンなどの一切は、盗まれたのか、あるいは他の理由なのかわからないがすべて無くなっていた、もう一度窓の外を眺めたが、そこにもやはりなにも見当たらなかった、携帯の画面をつけてみたが、電波はまるで無いという表示になっていた、ルーターが無くなっているので、WiFiに繋げることも出来なかった、災害用のチャンネルにもかけてみようとしたが、何の音も聞こえて来なかった、昔の固定電話に例えれば、線が切られているという状態と同じだった、古い漫画を思い出した、自分の部屋だけがどこか―未来か過去かどこかへ移動してしまった、そんなこと起こり得るだろうか?ふと、腹が空いているのに気付いた、窓の外でなにか、低い唸り声を聞いた気がして振り返ると、熊と虎のハーフのような奇妙な獣がこちらを睨んでいた、どうやらそいつも腹を減らしているらしかった、まいったな―武器になるようなものは見当たらなかった、獣が一声、高く太い声で吠えた。