弁償Ⅱ
森 真察人
Ⅰ
僕は確かに、あなたを愛しています。
──あなたはそのような歩行を、発言を、落涙をしない筈です。
僕は、一体、あなたの何を愛しているのでしょうか。
やわらかな抱擁の不在が香ります、空ろな瞳孔や足音から。
正しい論理の消失が見えます、大きなひらがなや駄駄から。
口笛の無音が聞えます、痺れた笑顔や退屈から。
それらの中に間違いなく、僕の愛が沁み透っていた筈なのです。もろとも消えてしまったのでしょうか。
僕の愛するあなたが消えてしまったのなら、僕の愛しているあなたは、何なのでしょうか──。
Ⅱ
あなたを全く喪ったと思われた翌朝に、僕が真先に想起したのは、かの少女の黒髪とやさしい理知でありました。かの少女の全き喪失にも係わらず、僕はいやしくも街行く少女たちに彼女のまぼろしを見ては、鳩尾を凍らせずにはおれません。
そうです。うちの猫も変り果てました。あの若々しい跳躍も、聞き分けのよい鳴き声も今は無いのです。しかし僕は彼を彼女と同じように愛していると、神に懸けて、確信できるのです。
ああ すべて変ります。喪われます。やがて、忘れられます。
だのに僕はどうして、本当に、人を愛せましょう。
Ⅲ
或る朝のことでありました。僕は雲の輪郭を追っておりました。追いきれませんでした。輪郭の中に輪郭があり、その中にまた輪郭がありましたゆえ。
或る昼のことでありました。僕は木枝の先を追っておりました。追いきれませんでした。枝は分かれた先で分かれた枝を成し、その先でまた分かれておりましたゆえ。
或る夜のことでありました。僕はあなたを追っておりました。追いきれませんでした。あなたとの愛しい思い出の内に愛しい思い出があり、その内にまた愛しい思い出がありましたゆえ。
勿論、いまのあなたも追いました。同じことでした。あなたとの時間の内には、無限の愛しい時間があるのみでありました。
その無限の、極限の彼方のその向こうに、僕の愛するかのそのものが、あるのでしょう。