反時計回り。
田中宏輔

もう二十五年も、黒板に向かって、数式を書いたり消したりしておりますが
おとつい、あるおひとりの数学の先生に
「田中先生、図形は、どうして反時計回りにアルファベットをふるのでしょうか。
 ご存じでしたら、教えていただけませんか?」
とたずねられて、その理由をぼくは知らなかったのですが
「たしかに、数学では習慣的にそうしていますが
 時計回りでもよいはずですが
 しかし、たしかに
 座標平面を4分割したとき
 象限の名称が反時計まわりに
 第1、第2、第3、第4象限って名付けられていますね。
 デカルトの時代には正の象限しかなかったので
 デカルト以後でしょうけれど。」
とかとか話しており、判然とせずにおりましたところ
古代文字の書き方の話になり
右から左に、それとも、左から右に書くのはどうしてでしょうね。
みたいな話にまで飛びましたら
その数学の先生が、近くにおられた宗教学の先生に
「アラビア語は右から左に書くのですか?」
と訊かれて
その宗教学の先生が
「そうですよ。」
とおっしゃって
「インクのない時代だからだったのでしょうね。」
と、ぼくが口をはさむと
「右利きの場合は、ですね。
 しかし、もともと文字を石に掘っていたので
 右から左なのですよ。」
とおっしゃって、身ぶりをまじえて
「こう、左手に鑿を持ち、右手で槌を打つのですね。」
「楔形文字の場合もですか?」
とぼくが言うと
「それは型を圧す方法ですから
 左から右です。
 右からでしたら、つけた型を損なうかもしれないでしょう。」
と言われて、ああ、なるほどと思ったのですが
すると、さいしょにぼくにたずねられた数学の先生との話に戻って
その数学の先生が、ぼくとの会話のいきさつを話されたので
その宗教学の先生が
「巡礼が教会の廻廊を回るのも反時計回りですよ。」
ぼくも、もうひとりの数学の先生も知らないことでした。
思わず、ふたりは目を合わせましたが
「どうして反時計回りなんですか?」
と、その数学の先生が宗教学の先生に訊かれたのです。
そしたら、意外なところに
いや、よく考えたら意外ではなかったのですが
「北極星を中心に星が反時計回りに動いているでしょう。
 そこからじゃないですか。」
ぼくと、もうひとりの数学の先生の目がもう一度合いました。
「解決しましたわね。
 おもしろいですわね。
 きょう、わたくし、脳が覚醒して眠れないかもしれません。」
「ぼくもです。
 習慣といっても、起源があるものでしょうから
 理由があるのですね。」
そしたら、その数学の先生が目をきらきら輝かせて
ひとこと、こうおっしゃいました。
「そうでしょうか。
 わかりませんよ。」
と、笑。
おもしろいですね。
人間というものも、知識というものも。
ぼくにたずねられた数学の先生
ぼくにP・D・ジェイムズを教えてくださった方で
P・D・ジェイムズばりに知的な方で
たまに、数学のことでたずねられることがあるのですが
そのたびに緊張いたします。
楽しい緊張ですが、笑。
そういえば、デカルトもニュートンも
むかしの学者って、数学や科学が専門でも
神学と哲学以外に、占星術も学問として修めていましたね。

この数学の先生
ぼくに、ミステリー作家のP・D・ジェイムズの本をすすめてくださった先生ね
この反時計回りの話が出る何日か前にも
お話させていただいていて
「P・D・ジェイムズの『原罪』のテーマって、
日本では無理ですよね、ナチスはなかったですし。」
と、ぼくが言うと
「そうですか?
 日本にはありませんか?
 在日問題とか、あるんじゃありませんか?」
とおっしゃって。
そういえば、ぼくの実母だって、被差別部落出身者だし
それが理由の一つで、ぼくの父親とも離婚したんだし
とか思ったけど、いま職員室で言うことじゃないと思って、そのことは黙ってた。
「そうですね。
 ぼくは当事者じゃないので、想像もできませんでしたけど
 それほど自分から遠い話ではありません。
 韓国籍の友人もいましたし。
 でも、それで苦しんでるなんて聞いたこともなかったので
 思い至りませんでした。」
そうか。
在日問題か。
気がつかなかった。
うかつやったな。


そだ。
学校で、こんなやりとりがあったあと
塾で、生徒に話したら
「じゃあ、なんで時計は、反時計回りに回らないの?」
って、ひとりの生徒に言われて、ハッとした。
落ち着き払った顔をしながら
塾の教室にある広辞苑を開くと
時計のはじまりは、「日時計だった」とあり
はたと思い当たった。
「ほら、広辞苑に、時計のはじまりは、日時計だったとあるでしょう。
 日時計はさ、
 地面にできた影の動きに合わせて見るでしょう。
 地面にできた影は、太陽の動きと反対に動くしね。
 太陽の動きは、星座といっしょだったよね。
 だから、星座と違って、時計は、時計回りに針が回ってるんだよ。」
「そっか。わかった。」
生徒の顔が笑顔に変わった。
ぼくも、ほっと胸をなでおろした。


自由詩 反時計回り。 Copyright 田中宏輔 2024-10-02 11:23:08
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