咲花とかえで
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黒っぽく光って見えるブザーがたまに求愛音を発しているその下で、森下かえではつかのま涼んでいた。学校が終わり、グラウンドに向かう途中、あまりの暑さに思わず避難したのだった。
かえでは中学2年生。地域で活動する女子野球クラブのジュニアチームに所属し、日々練習を積んで、来たるべき未来に備えている。
父親がテレビ観戦をしていた影響で野球が好きになり、小学校の頃から少年団で練習をするようになった。両親ともにその経験はなかったが、野球がしたいという意思を伝えるとすぐに承諾してくれた。そして中学へ進み女子の部活がないことを知ると、クラブチームをネットで見つけ、ほどなく入団した。
酷暑で夏の音はとぎれとぎれに聞こえ、同じような調子で緑が少しざわめく。そんな様子を感じ、タオル地のハンカチで顔や首の汗を気持ちはたくと、つかのま安らぐ感じがした。そして以前から気に掛かっていたことを思い出す。
しかしそれに気に取られている時間が、かえでにはあまりなかった。一息つくと。かえでは練習場へ足を向けた。
着くと、後輩の田中咲花がはちきれんばかりの笑顔で駆け寄ってきた。すでにユニフォームに着替えている。
「せーんぱぁい、やっと来ましたね!」
咲花は中学一年生。かえでとは近所で、練習後はいつも一緒に帰っている。
母親の智恵がかつて少年団に所属していたことがあり、物心がついた頃にはバットを振るようになっていた。だが中学で野球をあきらめたという経験をしたことのある智恵が本格的にやるのをしばらく反対していたので、チームに所属するのは中学になってからだった。
そんなわけでかえでに比べるとまだまだ技量は足りなかったが、反対を押し切って来た分熱意はすごく、ソフトバンクホークスに所属していた松田宣浩の熱男にあやかって、いつか熱子と呼ばれたいと願い、日々練習に打ち込んでいる。
「新しい練習場に来てから、もう野球したくてしたくて!」
「咲花はホント、いつも元気だねー」
「もう朝から待ち遠しかったですよ。先輩は?」
「そりゃあもう、今からでも練習したいよ?」
「そうですかー? 普通に歩いていたからそんな感じなかったですよ?」
「そ、そんなことないよー」
かえでは笑顔で返したが、気がかりが所作に影響していたのかと思うと少しショックだった。
新しいグラウンドには2日前から来ていた。これまでの練習場は小さな運動公園で、少年サッカーで使用されるような、高く囲われた金網が圧を感じるような場所だった。監督の馬鈴の尽力で手はずがつき、ようやく試合形式の練習も出来るようになったところだった。さすがに電光掲示板のスコアボードは望めなかったが、金網の圧迫感も薄れ、例えある程度の距離の飛球があっても、女子野球のジュニアのレベルなら心配することはなかった。
「まあそれならいっかあ。じゃかえで先輩、待ってますよ!」
咲花はそう言うと、グラウンドのベンチへと走っていった。
「……相変わらず元気だなあ。まあ、とにかく練習しないとね」
ひとりつぶやくと、かえでは場内の更衣室に向かった。
夕暮れまでにまだ少し時間がある時、森下郁子はネット口座にある残高を見つめると、少しためいきをついた。
娘であるかえでのことだ。
森下家はごく普通の家庭で、夫の年収であれば、通常なら心配はなかった。しかし気がかりは娘の今後のことだった。
普通の子供のように塾に行かせるだけならわけはなかった。しかしかえでが野球で身を立てたいであろうことは、毎日クラブから帰ってもすぐにバットを振る行為でも、痛いほどわかっていた。
問題は道具代や環境である。
単にグラブやバットの問題だけではない。例えばユニフォームも洗濯するうちに摩耗する。かといってツギハギだらけの服を娘に着させるわけにもいかない。
それに女子野球のクラブチームジュニアと言っても、ついこの間新しいグラウンドに移ることが決まったほどなので、練習環境もそんなに整っていない。いずれ自宅練習に使用するであろうトレーニングキットもこのままだと必要になる。さいわい森下家は戸建てなので、庭に設置するのは造作もない事だったが、はたしてその環境を作るのにどれだけかかるのか……、さらに遠征費もかかるだろう。
かえでに我慢をさせるのは、ためらわれた。郁子が高校時、女に教育はいらんが持論の父が大学の費用は出さんと言い張り、説得しても通らなかったのだ。
成績がそこそこ優秀だったにもかかわらず、やむなく高校を卒業したのち、地元の企業に就職した苦い経験が、彼女をその気持ちにさせた。
高校生にもなればバイトで少しまかなってもらうことは教育的にもいいことだと思うが、まだ時間が2年弱ほどある。その間まで辛抱してもらってもいいが、出来れば、娘のためにある程度のことはしてやりたい。そう郁子は思うのだった。
「いいパートでもないかなあ……」
つぶやくと、しばし気が遠くなっていった。
しかしそうもしていられない。夫もかえでもいずれ帰ってくる。
「……とりあえず今はやれることをやらなきゃ」
気を取り直し夕飯の支度をしようと、ソファーのあるリビングから台所に行く。
食材の用意をしていると、リビングから少し音が聞こえてきた。
「あ、テレビを消し忘れてた」
持っていた食材をとりあえずカウンターに置くと、リビングに戻る。
そしてリモコンをテーブルから手に取り消そうとしたその時、画が見えた。
「ムーバーフードで、いーんじゃなあい?」
――これだ!
テレビを消すとスマホを取り出し、郁子は検索を始めた。
「みんな喜べ、ついに試合が決まったぞ」
馬鈴が言うと、チームは色めき立った。
新しいグラウンドになってから一週間が過ぎ、その間に一度紅白戦も行われチームの士気も上がって、さらに練習に励んでいた時期だった。
「いつですか?」
「相手は誰ですか?」
「どこで試合するんですか?」
「クーリングタイムはありますか?」
「近くにコンビニありますか?」
「クラスのみんなは見に来れますか?」
「b祖l;機blsjbtlkvsじょぃ」
「あーそう一斉に質問するな! 落ち着いて話を聞け! とりあえずメモ用意しろ」
馬鈴は一喝すると、試合の日時場所移動手段などを噛んで含めるように告知した。選手たちはみな真剣にスマホのカレンダーへスリックしていく。
「……ということで、みんなメモったか?」
「はーい!」
一斉に帰ってきた声が、グラウンドの向こうまで響き渡った。
練習を終え報告を受けたかえでと咲花は、帰り道すがら、試合の事ですっかり盛り上がっていた。
「せんぱぁーい、もう、もう今からでも試合したいですよぅー」
「咲花ちゃんも力つけてきてるから、いきなりスタメンもあるかも?」
「出してもらえるようにがんばりますけど、かえで先輩とちがってまだまだ」
「たぶん今回は練習試合だし、咲花ちゃんもどこかで出してもらえると思うよ?」
「だといいんですけどねぇー…んてそうだ先輩、これまた買っちゃいました!」
言うが早いか、咲花がカバンから取り出して両手いっぱいに広げたのは、1枚のタオルだった。
「じぁああああああん!!」
咲花がドヤ顔で広げたのは、彼女がファンであるソフトバンクホークスの牧原大成の”マッキー”と書かれた応援用のマフラータオルだった。
「きゃああ~んマキさま~かっこよ! かっこよ!」
体をフラワーロックのようにくねらせながら、両手を広げて歩く咲花のあまりにアホな姿に、かえでは多少引きつつも、ただ苦笑するしかなかった。
「歩きながらそんなにグネってたら、転んでねんざしちゃうよ?」
「えへへ~ドヤりたすぎてつい……そういえばかえで先輩はどこのファンでしたっけ」
「前は巨人が好きだったけど、いまは自分が練習するのに精いっぱいだよー」
「あははーかえで先輩がそんなー」
「もうじき咲花ちゃん家だよ、家に帰るまでが……」
「練習、ですよね? 遠足じゃないんすから、もう耳タコですよ~」
「変なことしてケガしたら、お母さん悲しむからさ、ほら、だからそれしまって、しっかり歩いて!」
「はあぁーい」
しぶしぶ咲花がタオルをカバンにしまうと、かえでは自宅への道を歩き出した。
「じゃ咲花ちゃん、また明日ね」
「はーい、先輩、しっかり休んでくださいねーおやすみなさーい」
「うん、じゃあまたね」
「はーい」
浮かれた様子で家路につく咲花をちょっとだけ見ると、かえでは束ねた髪を振り、家路を急いだ。少しでも時間があれば、練習したかった。
「ただいまー」
「おかえりーかえで、食事の前にまた素振りするの?」
「うん、ちょっとだけ」
そう母にあいさつがてら、何気なしに門を見ると、何か様子が違う気が、かえでにはした。
試合の日。
チームの皆が待ちに待った日だ。
さいわい場所も咲花たちの住んでいる地域からほど近く、最寄りの駅前からバスで行ける範囲だった。
「今日のスタメンを言うぞ、1番……」
馬鈴が発表し終わると、みなグラウンドに出てキャッチボールを始める。
かえではスタメンで6番ショートだったが、咲花は控えに回った。
「やっぱまだスタメンは無理だった~」
「だってまだ1年だもんね」
「まあしゃあないっすな。かえで先輩、しっかりかっ飛ばしてくださいね!」
おどけて咲花が言うと、かえでは少しだけ笑みを浮かべ、うなずいた。
相手は県内の、これもクラブチームのジュニアだったが、咲花らのいる市とは離れていたため、評判はわからなかった。そもそも県レベルのジュニアチームの状況まで把握して告知するような媒体やSNSのアカウントがあまりないので、知る由がないのはもっともなことだった。2人の見るところ、自分たちのチームとそう変わらないように見えた。
試合が始まった。咲花たちのチームが後攻だった。
100㎞超えの球を投げるわけではなかったが、自軍のピッチャーはチェンジアップとカーブで敵側をなんなく抑えた。
相手のピッチャーもチェンジアップを投げるが変化球は投げず、そのかわり球がホップするかのように威力があった。女子中学生で100㎞が出るのは県レベルではあまりいないはずだが、まるでその球速が出ているように思えた。咲花たちは1回、2回とその緩急に戸惑い、これまた抑えられた。かえでもファウルを何度か打ち粘ったが、最後はファーストへのポップフライで初回の打席を終えた。
「ああんせんぱぁあ~い」
咲花が嘆くが、粘っているうちにタイミングをつかんだかえでは、
「次は打つから!」
「かっ飛ばしてくださ~い」
そう笑みを浮かべ、咲花に返した。
3回、4回と進み、両軍四球を一個ずつ出した他は、打ちあぐねるしかなかった。
そして5回表に入った。
ピッチャーは前の回から少し疲れが出始め、外野に飛ぶ回数がだんだん増えてきていた。
そして4番をセカンドのポップフライで仕留めたあとの、次のバッターの時だった。
何度かの投球のあと、ピッチャーが投げ損ねたチェンジアップを、その打者が強振した。快音が響き、打球はライトの方向に遠く飛んだ。ライトは懸命に追い、やがて追いつくとジャンピングキャッチをした。空に挙げたグラブに白い光が見えた。
「あっぶ……」
咲花が驚くほどの、ぎりぎりのタイミングだった。
少しして、ライトの様子がおかしいことに皆が気付く。やがてそれは現実のものと知ると、馬齢はキャッチャーの後ろから交代を告げた。ちなみに審判、と言っても一人だけだが、資格者を呼ぶと費用がかかってしまうので、両軍の監督が守備時にかわるがわる行っている。
「……に代えて、ライト田中咲花!」
出番がやってきた。
「……はいっ!」
咲花は間を置きつつ返事をし、中学生らしく元気に走っていった。スタメンのライトは足をひねり、センターに肩を貸してもらいながら戻ってきた。応急処置をひと通り取ると、馬鈴はまた審判に戻る。
――怪我した先輩の分まで、がんばらなくちゃ……
咲花は気合を入れ、普段とは全く違う真剣な顔つきになった。
試合に戻ると、騒ぎで空いた時間で熱中症対策の水分を補給したピッチャーはうまく気分転換が出来たようで、相手のバッターを手早く追い込んでいく。
――まだわからない!
咲花はさらに気を引き締め、打者の方向を見据える。
「バッターアウト!」
結局交代あるあるは起こらず、バッターはあえなく三振に終わり、自軍の攻撃に移った。
「ふう……」
とりあえず安堵し戻ると、咲花は負傷した先輩に声をかけ、そして監督の指示を仰ぎ準備に入った。打順は4番から、咲花の打順は8番なので三者凡退に終わればめぐってはこないが、先ほどのようなこともある。準備するに越したことはない。
4番、5番が倒れ、かえでの打順になった。
――必ず打つ!
かえでは初回の打席で、すでに確信を得ていた。
1球2球とボールが続き、そのあとストライクが入ると、その確信はより強固なものになった。
4球目が投げられた。
チェンジアップ。
かえでは合わせると、快音を響かせた。
「やったあ、かえで先輩!」
打球はショートとサードの間を速く抜けるとレフトにまで達し、シングルヒットとなった。シュアなバッティングで鳴らすかえでらしい打球だった。
そしてかえでの打球で調子を崩したのか、敵側のピッチャーの制球が大きく乱れ、7番にフォアボールを与えた。
そして待ちに待った咲花の打順。
――2アウト1、2塁……とにかく塁に!
咲花はまた気合を入れなおし、バッターボックスに入った。
相手の制球はさらに乱れ、4球目を投げたあとのカウントは3-1となり、追い込まれていく。
「思ったよりやっぱ速い、ここは見て行こう……」
咲花は力をつけては来ているが、まだ中学1年生。先輩たちに比べるとまだまだ非力だ。マン振り(思い切りバットを振り回すこと)は避け、じっくりと対峙する方針に決めた。
「フォアボー!」
結局咲花、そして9番、1番に四球を与えると、先発のピッチャーは交代を告げられた。打ったのはかえで1人、効率よく2点を奪うことが出来た。
結局試合は2-0で、自軍の勝利となった。
「いやー自信があったんですが、やはりこの暑いさなか、先発1人では厳しいです」
「いやいや、うちのライトが負傷するほどの打球を食らったときはヒヤヒヤしましたよ」
「……今度対戦するときは、負けませんよ! ……そうだ、試合が終わるころに間に合うよう、ムーバーでドリンクを頼んだんですが……お近づきのしるしにどうぞ」
「いやそんな、あのー、sktysbヴぉがlくえたsmn今度はあのdgsけrづあvにう」
という大人の通過儀礼が交わされる中、選手がベンチで休みを取っていると、ほどなくしてデリバリーが来た。
「あっ」
かえでが目を見張った。
配達してきた人物が、誰よりも見知った女性だったからだった。
一塁側の内野の金網の向こうに見える陽炎が、乗ってきた自転車を揺らしていた。
「びっくりしましたよぉ~せんぱぁ~い」
「……うん、ちょっとね」
「でも働いてる先輩のお母さん、ちょっとかっこよかったなあ……」
「何か……心境の変化かな?」
電車から降り歩く帰り道、そんな軽口を言うのがせいぜいで、あとはいつもみたいに弾む会話を交わすことが、お互いに出来なかった。
「……そろそろ咲花ちゃん家だね、じゃあ、ちょっと急ぐから!」
かえでは、タイミングを計って、少しだけ重い場を逃れるべく咲花に声をかけると、早歩きで家路に向かった。
そして、家に着いた。
「ただいまー」
戸を開けると、玄関の式台に。見慣れない、けれどもかえでにはなつかしい、かつてファンであったある選手のグッズがぽつんと置かれていた。
「おかえりー」
郁子が姿を現した。
「お母さん……ごめん、ごめんなさい……」
母の顔を見ると、グラウンドに現れた母の懸命な姿が重なり、言ったあと涙があふれるのをこらえるのが出来なかった。
「あら、勝ったんでしょ? 今日はめでたい日だわあお祝いよー。なんで泣いたりするの?」
「だって……だって、お母さんがそんなに苦労してた、なんて……」
「ああ、試合後のこと? 母さんも最近運動不足だから、それも兼ねてちょっとね。1時間で数件回るだけだから、そんなでもないのよー」
言うと、郁子はかえでを抱き寄せ、耳元でやさしく言った。
「かえでは、何にも心配しないでいいのよ、母さん、好きでやってるだけなんだから……」
「お母さん……」
言いながら二人は、しばしその場に佇んだ。
玄関ドアの横にある自転車は、少しだけ泥がついていた。