キクチさん
れつら
友人がキクチさんになるというので
キクチさんのところに相談に行く
キクチさんはすこし前に劇団に入り、かわいらしい名前をしていたが
昔の名前で呼ぶと、今は違う名前でやってるの という
そのひとにも事情があるからわからないけれど――
キクチさんとは安いバーで待ち合わせて
しばらくウイスキーを飲んだ仲なのだ
ウチがいま思うのにはね、
煩いバーマンが、最近変わったというので
ラベルをみる
濡れた指の腹で擦ると
印字面が水をはじく
それはエチケット、というのだ
キクチさんはしたり顔でいう
昔のキクチさんのことはよく知らない
キクチさんは原初、遠くの島からきた民族の末裔で
酒を飲むと腹を出して寝る癖があった
眠る前には膝をたたみ 突き出してまるまった
それはキクチさんが紫外線から身を守るためであったといわれる
そのためキクチさんの腹は総じて白い
白い腹を、オリーブをつまんだ指で、腹の下の傷をさわっていた
軒に叩き付ける無数のキクチさんが雪にかわるころ
風邪をひくといけないので毛布を掛けた
かつて多くのものが
キクチさんになろうとしたと聞く
近頃ではそう珍しくもないのよ とキクチさんは言っていたが
それはかつて キクチさんであろうとしたことの難しさを逆説的に証明する
タクシーをひらって帰る後部座席で
運転手の後頭部に貼られた名札
その貼り付けられた名前をした彼は眠気を噛み殺すための話題を鋲に打つ
iPhoneを開き キクチさん をグーグルしネットプリントに送ると
セブンイレブンは今頃になって それを陳列し始める
午前三時半 通勤するひとたちが買っていくのだ
そのうち何枚かを引き被っていたひとも
翌朝には駅前で目を覚ますだろう
再生紙工場に持っていくと段ボールに変えてもらえるそうだ
キクチさんはよく喋った
地下鉄の行き先を張り替える仕事に従事しながら
とくに自分のことをよく喋った
しばしば主語を省略し 文脈に根を張り
自分のことをウチといった
帰宅後、妻にはこのように話した
キクチさんは
古びていくジャパニーズ・ウイスキーを
始末したのだ
僕もそれに加担した