まにまにダイアリー④まつげちゃんとデジャブ
そらの珊瑚
待ち合わせのカフェで読みかけの文庫本を読む。
雨の日の本の紙は水分を含んでかすかにしっとりしていた。
まるで息をしているかのように。
そうこうしているうち、まつげちゃんが現れた。
久しぶりに会ったまつげちゃんは、相変わらずまつげが長かった。
まつげちゃん、というのはもちろんニックネーム。
彼女とは小学生5年生のときに同じクラスになってからの友達。
彼女のまつげはとても長くなんとマッチ棒が3本も乗ったのである。
ビューラーなんぞなくとも、くるんと上を向いたまつげは長くかつ強靭であったのだ。
今目の前にいる彼女のまつげも湿気なんかどこへやら、くるんとしている。
久しぶりだね、半年ぶり? 1年ぶり? と再会を控えめに喜びあう。
会って数分で小学生の女子児童に戻ってしまう感覚があった。
2人にしかわからないだろう感覚。
28歳の女の着ぐるみを着た女の子ふたり。
あの頃まわし読みをしていた別冊マーガレットはたぶん捨ててない。段ボールにつめて家の納戸かどっかにあるはず。
私たちはマンガの中で繰り広げられる大人の恋に憧れていた。
「これなんだけど」
まつげちゃんが私に差し出したのは、彼女の付き合ってる人のライブチケットだった。
「お金、払うよ」というと
「いーの、いーの。スタンディングのちっちゃな箱なの。そんでもお客さん入るかなって心配。もー来てくれるだけでありがたいんだから。2枚あるから誰か誘って来てくれると嬉しい」
「そう…じゃ、ありがとう」
まつげちゃんの彼氏は売れてないバンドマンだった。
このライブにかかる費用の大半も製薬会社で働く彼女が出してるんだろう。
おそらくそのほとんどが回収されないんだろうなあ。
それだけならまだしも彼が別の女を妊娠させてその中絶費用も出したこともあったっけ。
それでもまつげちゃんが彼と別れないことがずっと不思議だった私は思いきって彼女に、なんで? と訊いてみた。
「やっぱ、そーだよね、ふつう別れるよね。でもほら、あたし、仕事でマウスをたくさん殺してるじゃん、新薬作るって大義名分あるけど、いやになっちゃうときあるんだよね。まじで病みそうって。だけど彼が歌ってるとこ見るとわあ、いいなあって心がめきめき復活するし、ボーナス出たら二人で露天風呂付きの温泉で豪遊して彼を一人占めしたり、いつか売れるんじゃないかって夢みることで、またちゃんと現実に戻れる。そりゃあ私が彼に利用されてるだけっていう人も周りにいて、世間ってやつ? それはそう、まったくの正論なんだけど、あたしも彼を利用してるから、おあいこ。そんでいいの。打算と打算」
まつげちゃんはそういってきれいに笑ったあと、少し目を伏せてチャイを口に運ぶ。
まつげにマッチ棒3本乗せてみせた少女はもういない。
いや、根っこのところにはいるのかもしれないけど
さらにそのまつげを強靭に進化させたまつげちゃんがここにいる。
彼女のまつげに光が当たる。それはもう神々しいといってもよかった。
いつの間にか雨は止んでいた。
他人がそんな奴、と非難することは簡単だし、私も本音を言えば彼はまつげちゃんをちゃんと幸せにしてくれるんだろうか、思っていた。
だけどまつげちゃんは何もかも飲み込んだ上で幸せなのだ。
人の幸せは多面体なんだ。
私は心底まつげちゃんがうらやましく思えた。
もしいつか死ぬときに、というか生き物は必ず死ぬのだけど、ちゃんと大人の恋を手にいれてそれを胸に抱えたまつげちゃんは、おばあちゃんになってもきれいに笑うんだろうな、と。
長いまつげが作る影をますます濃くして。
「あ、虹!」
私が虹を見つけて指さす。
「えっどこどこ?」
まつげちゃんは目を細めて虹を探している。
やっと見つけた窓硝子のむこうに浮かぶ虹は、人の眼にぎりぎり認識されるくらいな儚げな色で、今にも空に溶けそうで、まつげちゃんは「にじ、うっす!」と小さく叫んだ。
私はなぜかしゃっくりした。
前にもこんな風に笑いあったことがあった気がする
雨上がりの校庭やなんのへんてつもない路地なんかで
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