沈没船の内訳は君のように俺のように
ホロウ・シカエルボク
異国の船は沖の無人島の側で沈んだってノイズだらけのラジオが言ってた、本来はアウトドア用のロングチェアーにもたれながら、海水をたらふく飲んで死ぬのはどんな気分だろうと俺は考えた、大量に飲むと気がふれると聞いたことがある、だけどどうせ死んじまうんなら、正気か狂気かなんてどうでもいいことかもしれないな、そう、どうでもいい―どうでもいいことがこの世には多過ぎる、といって大事なものばかりが溢れていたとしても、そいつは結局味気ない日常の中で価値を失ってしまうだろう、人間が犯す最大の罪は無自覚に生きるということに他ならない、窓の外をヘリが何機か猛スピードで飛んで行った、何人が乗った、どれぐらいの規模の船なのかというようなことは結局分からないままだった、ラジオはお行儀がいいだけのヒットチャートを流していた、全身で歌をうたうシンガーが居なくなった、音符に沿って声が出ているだけの電子ピアノみたいな声のやつらばかり、昔はよかったなんて話をするつもりもないけれど―コンロに乗せた小さな薬缶が発狂する、火を止めてインスタントコーヒーを入れる、こういうものがあると欲求に関係なく、時間の隙間を埋めるみたいに飲んでしまう、それはもしかしたら中毒なのかもしれない、だけど、中毒なんて言えるほどの切迫感は微塵も存在していない、そういうことなのかもしれない、日常とは異常事態にすっぽりと被せられるフィルターみたいなもので、あらゆるものを「確かに少しおかしいなとは思うけれど、まあ、いいでしょ」みたいなところに収めちまう、コーヒーを飲んで、フランスの修道女が書いたとかいう詩集を読んでいると、異国の船の続報が流れた、乗客は全員死亡とのこと、お気の毒さま、様々な不慮の事故から死体を運び出す連中のことを思う、まったくどんな気分なんだろうね、仕事としてこなしているだけなのか、あるいは凄惨な現場に負けないくらいの使命感を持って働いているのか…それはきっと様々なんだろう、嫌々やっているやつだって居るかもしれない、でも、どんなやつがどんな気分でそれをしていたところで、不慮の死が滞りなく弔われるということは間違いじゃない、仕事なんて本来、モチベーションの問題ではなくいかに結果を残すかというのが正解だ、現状と行違うようなこだわりがある人間はたいてい役には立たない―なんの話をしてたっけ?マグカップを洗って伏せる、風水じゃカップや器は伏せずに置くと運気が上がるとかいう話、でも俺はそんな居心地の悪い真似はやろうとも思わない、ライフスタイルを捻じ曲げて幸せを望むという行為は、すでに幸せから大きく外れている気がする、どうして誰も彼も、単純や正直を簡潔であることと誤解してしまうのか?例えばそれが俺なら、複雑や混沌をそのまま吐き出してありのまま並べることが、もっとも単純で簡潔なことなのだ、それが理解出来ないのはもしかしたら、誰も俺のように書いていないからなのかもしれない、別に俺が唯一無二だとか言いたいわけじゃない、ただ俺は自分がどう書けばいいのかを知っていて、その為に邁進しているというだけのことだ、そしてそれをひたすら繰り返し重ねて来たから、これぐらいのことは言えるというだけの話なのさ、ニュースは終わり、ジャズが延々と流れた、極をセレクトしている渋い声の男は、プレイヤーの略歴を淡々と語るだけだった、それは懸命な態度に思えたけれど、同時に無責任にも思えた、俺なら素人のように、この曲のこんなところが好きなのだと煩いくらい語るだろう…まあ、それはただ俺には、ジャズというジャンルに取り立ててこだわる理由が無いというだけの話なんだけどね、でもひとつだけはっきりと言えることがある、俺がジャズを好きになったのは、コルトレーンの「コートにすみれを」を仕事帰りの車のラジオで耳にした瞬間だったよ、そう、もしも彼がプレイヤーじゃなくて詩人だったなら、きっと俺のような詩を書くと思うよ、いや、これはジョークじゃない、マジな話さ…あいつは自分自身の単純や正直について深く理解していたのさ、それもきっと本能でね、その点、音楽っていうのはもしかしたら、文章よりもずっと感覚的なものなのだろうね、言葉をこねくり回す必要が無いのだもの、そりゃ当り前だよね、もしも俺が映画を撮ったら、下手なゴダールみたいなものになるはずさ、だってあいつは「悪魔を憐れむ歌」を映画にしたんだぜ、分かるよね?つまり俺のやり方ならそれはこういうものになるって話だ、きっとこの話は凄く理解してくれるやつとまるで理解出来ないやつではっきり分かれるだろうね、入口を一度見落とせばもう閉じてしまうような話なんだもの―シャワーを浴びようと思った、気分を変えて死の匂いが猛烈に香る街を歩こう、人生は下らない雨に降られ続けている、でも俺は時々、傘を差さなくてもまったく濡れずに帰ることだって出来るんだ。