Supper’s Ready。
田中宏輔
掲示板
イタコです。週に二度、ジムに通って身体を鍛えています。特技は容易に憑依状態になれることです。しかも、一度に三人まで憑依することができます。こんなわたしでよかったら、ぜひ、メールください。また、わたしのイタコの友だちたちといっしょに、合コンをしませんか。人数は、四、五人から十数人まで大丈夫です。こちらは四人ですけれど、十数人くらいまでなら、すぐに憑依して人数を増やせます。合コンの申し込みも、ぜひ、ぜひ、お願いします!
(二十五才・女性会員)
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詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)
優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)
真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)
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時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)
おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)
時間こそ、もっともすぐれた比喩である。
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さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)
飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。
余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。
八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどしさは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。では、じっさいに、右の歌をローマ字にしてみると、どうか。
sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka
やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときにはあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひらがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。
たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたしたちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石があることに、わたしたちが気がつくように。
存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)
人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)
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不完全であればこそ、他から(ヽヽヽ)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)
彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)
ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)
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映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。
まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
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物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)
人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)
物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)
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書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)
言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)
おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)
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どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)
新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)
それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)
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猿の檻はどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)
純粋に人間的なもの以外に滑稽はない
(西脇順三郎『天国の夏』)
simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)
コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)
かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)
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数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!
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この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。
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だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)
いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)
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私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)
わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムといったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成していく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。というのも、
これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)
窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。
ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。
二〇〇六年六月二十四日
朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ。
新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために、乗っている電車が停車しているという、車掌のアナウンスの最後に、
「ふう。」という、ため息が聞こえた。
まわりを見回しても、だれも何事もなかったかのような感じで、居眠りしていたり、本を読んだりしていた。
驚いてまわりに気づいたひとがいないかどうか見渡しているのは、ぼくひとりだけだった。
とても不思議な感じがした。
ぼくは笑ったのだが、その笑い顔はすぐに凍りついた。
だれも笑わないときに、ひとりで笑っているのは、おかしいと思ったのだろう。
ぼくは笑えなくなって、顔の筋肉をこわばらせたのであった。
人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)
人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)
ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)
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わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。
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われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)
光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)
わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)