メモ
はるな


わたしの書くたいていの文章は排泄にちかいものなんですけど、ときどき消化不良の嘔吐みたいなのもあって、みたものがそのまんまゲロになってるのも、あります。そういうゲロにポイントがつくこともあるけど、へんなのーと思って、でも嬉しい。口にいれてみるのはそんなにこわくないのかもしれない。
出しちゃうから、何度もおんなじことを思って、書いて、そして繰り返します。
あらゆるものはすべからく美しく、存在は等しく無価値であることとか、でもむすめはそのあらゆるものと一線を画してわたしにとって価値高く、それでいてその価値はあらゆるものがそれぞれ持っているべきものであることとか。
何度も何度も書いてきたし思ってきた、そのことを、取り出して、もしかして変えていかなければならないことは、それが毒だったと言わなければならないかもしれない、ちょっとでもその可能性があることが、おそろしく苦しい。こわくてゲロしてる。受け入れたくないと思ってる。でもそうしないともうダメかもと思ってもいる。

それじゃあ線をひくのはどうかしら、と考えてみる。
いつもつねに時間はあたらしいのだから。
考えてみるけど、理解できない。そしてまたゲロします。

もうほんとうに時間は経つので、久しぶりに高円寺の駅前に経ったときくらくらした。ここに住んでる子と仲良かったこともあった。背がたかくなくて、スケートボードが上手で、ベースを弾いていた。何度もライブを見に行って、ぜんぜん何言ってるかわかんない曲ばっかりで、面白かった。それから坂道をずーっとくだっていったところのライブハウスにも行った、途中の古着屋さんで手のひらよりでっかい缶バッジを買ってもらって、それはまだしまってある。
そして今は、駅前の喫茶店にすわって、コーヒーと紅茶を一杯ずつのんだ。好きな文章を書く人に会って、はなしたり、サインをしてもらった。このひとからあの詩が出てきたんだなあと思って、不思議な気持ちがした。
でもそのことはまだ消化していない。ゲロもしてない。つめたくない、純度のたかい氷をのみ込んだみたいに、たぶんゆっくりわかっていく。わからないままかも。何を話したかも、あんまり覚えていないし、たぶん夢みたいだった。大切なことになる気がする、そういうふうに、何年も知らなかった、でも詩のことは知っていて、とても好きな詩を書くひとと、会ってみて、話して、そしてではまた、といって別れたこと。

縁日の宝石すくいの、あのきれいなちゃらちゃらたちにちょっと似てます。
おまつりのときしか見られなくて、(探せば手に入れられるんだろうけど)、あんなにたくさんあるのにちょっとしか掬えなくて、でもとれたぶんはちゃんときれいでうれしくて、朝になったらなんとなく忘れちゃって、部屋のすみっこに転がってたりする。転がってるのを拾って手のひらに握ってると、いい気持ちがする。そういうちょっとだけきれいで、やさしいものをみてて、わあわあ泣いてしまう。



散文(批評随筆小説等) メモ Copyright はるな 2024-06-10 16:55:27
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